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人権疲れとトランプ現象

火曜日, 1月 17th, 2017

トランプ現象の背景にあるのが、米国の国民の「ポリティカル・コレクトネス」に対する嫌悪感の拡がりにある、というニュース解説が目立つようになった。

アメリカの民主党政権というのは、歴代、概して、米国内にとどまらず、外国の人権状況に対するコミットメントが厳しく、クリントン政権もさりながら、オバマ政権に至ってその傾向は強まったと言えるだろう。

そもそも、オバマ政権の前のジョージ・W・ブッシュ大統領の共和党政権が、「サダム・フセインを打倒して、イラクに民主主義を根付かせる」「民主主義の戦い」と宣言して、あのイラク戦争を引き起こしたのである。

その結果が、イラクの宗派対立からの大混乱と内戦、あげくにISの台頭である。

さらに、イラク戦争は、中東の独裁国家への反発を広げ、アラブの春を誘発する。

アラブの春で、革命がある程度成立してしまったほとんどの国は内戦などの大混乱に陥った。

独裁が復活したエジプトなどは人権抑圧とともに安定を取り戻しもしたが、最悪の結果がアサド独裁政権下のシリアで、ISはおろか、反政府組織もテロ組織に親和性があり、それに対するアサド政権の虐殺と人権抑圧は内戦前よりはるかに激化した。

EUにはシリアから難民が大量に流入し、難民を寛容に受け入れてきたドイツやフランスの「ポリティカル・コレクトネス」を根本から揺るがした。

イギリスに至っては、EUの理想である一つのヨーロッパというという「ポリティカル・コレクトネス」から、国民投票によるEU離脱決定という形で、背を向けてしまった。

その中でのトランプ現象である。

「ポリティカル・コレクトネス」に対し、あからさまに露悪的に背を向けた言動を繰り返したトランプ氏を地滑り的に大統領に押し上げた米国社会には、どこか「ポリティカル・コレクトネス疲れ」の空気がひっそりと拡がっていたのだと思われる。

フィリピンでは、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、検察官出身であり、ダバオ市長時代から麻薬犯罪に対する過激なまでの取り締まりをしてきたが、ドゥテルテ大統領の言動を、オバマ政権が人権侵害であると繰り返し警告したことから、ドゥテルテ大統領が激しく反発し、米国とフィリピンの国家間の関係は抜き差しならない状態に陥ってしまった。

ドゥテルテ大統領は、検察官出身で、現時点では少なくとも、見境の無い暴君というわけではなさそうである。

フィリピンの麻薬戦争において麻薬密売犯罪組織を撲滅するためにやむにやまれぬ強硬手段を講じているという自覚を持っていることが、言動からうかがえる。

コロンビア麻薬戦争、メキシコ麻薬戦争といった、犯罪組織との内戦ともいうべき状態にある国々を見ていると、フィリピンの麻薬組織の深刻さと社会全体にもたらしている被害も相当なものであり、それが、麻薬組織に対し殺戮を辞さない超法規的な取り締まりをおこなうドゥテルテ大統領が、国民支持率90パーセントという異常な支持を獲得している理由であろう。

もちろん、ドゥテルテ大統領の行為が、デュー・プロセスでアウトであることは疑問の余地はなく、ペルーのフジモリ大統領のごとく(フジモリ大統領もペルーの麻薬組織を強引に撲滅して社会的経済的安定をもたらした)、政治的に落ち目になれば職権濫用・虐殺の汚名を着せられることは容易に想像がつく。

ドゥテルテ大統領は、そこまで予測しながら麻薬密売犯罪組織の壊滅を優先しているかのような開き直りを感じる。

これが、ドゥテルテ大統領が守りに入って自らの保身に走った時は、たちまち市民を弾圧する独裁政権へと転ずる可能性は否定できない。

一方、麻薬組織の撲滅がひと段落つけば、法曹らしくデュープロセスに回帰する可能性もある。

トランプ大統領はといえば、ポリティカル・コレクトネスを偽悪的に貶めるような発言が目に付く。

ポリティカル・コレクトネスそのものがトランプ氏自身に対する攻撃手段だとみなして、手当たり次第に反発しているように見受けられる。たいしたことでもないのにスルーができていないのが幼稚に見えるくらいである。

そんなトランプ政権は、オバマ政権とは打って変わって、外国の人権抑圧状況をスルーするようになる可能性が高いと思われる。

これは、一面では世界の人権外交と人権状況の後退である。

しかし、米国の人権外交が、OECDレベルの先進国を除けば、多くの国にとって国の実情を無視した迷惑な内政干渉、政権転覆行為、犯罪組織の跋扈や混乱を助長し国民を不幸に陥れる行為と、しばしば受け取られていることも、一面の事実である。

さらに、多くの場合、米国の人権外交は、実は米国の国益追及と裏でリンクしていて、米国の国益にそぐわなければ米国はしばしば人権外交を手控える、という批判も、また一面の真理であろう。

例えば、中国国内での人権抑圧には、米国の歴代政権は、民主党政権含めて、極めて寛容である。

米国の、イラク戦争の遂行や、アラブの春への中途半端な口先介入による混乱が、人権外交の結果だとすれば、人権外交が招いた中東の諸国民にとっての結果として最悪である。

トランプ大統領のアメリカは、外国との経済関係とのバーターで、外国の人権状況など、簡単にスルーしてしまうように思われる。

そういう意味で、トランプ政権下で、対ロシア、対フィリピンなどとの関係の改善が見込まれるのは、予想とたがうところではないだろう。

トランプ次期大統領は、シリアなどはアサド政権とロシアの圧政に任せた方がよいと、まじめに考えている可能性が高い。

米国基準の感覚で人権を振りかざすことが、ある国家の状況においては、最大多数の最大幸福に必ずしもつながらないことを、米国が、対外的にも、対内的にも、ここ数年で示してしまったのかもしれない。

それは、世界にとって、長期的には不幸なことであるが、短期的には社会の安定と経済的繁栄をもたらすかもしれない。

トランプの米国が、人権外交を押し付け振りかざすというオプションをあまり行使しなくなる、というのは、ある意味米国が世界の多様性を認め、傲慢な理想の押し付けを控えるようになる、といえるようにも思われる。

米国の傲慢な利益誘導とパワーゲームが逆に増えるとは思われるが、それはそれで他国からすれば米国の行動基準を予測しやすくするかもしれない。

一方、トランプ氏の論理と政策が、米国民の幸福の最大化をもたらすかは、正直疑問なようにも思う。

とにかくも露骨に利益誘導的でエキセントリックで、一国の指導者としての持続可能性に疑問がわくほどに危なっかしい。

とはいえ、米国という民主主義社会は極めて強靭であるから、とことん深刻な事態にはならないとも思われる。

なにしろ、8年間のジョージ・W・ブッシュ政権すら、米国はやり過ごしてきた。

ブッシュ政権のもとで起きたリーマンショックは民主党政権がしりぬぐいをし、アフガニスタン戦争・イラク戦争は共和党が政権を奪還してなおまだ負の遺産として尾を引いているが。

米国はやはり民主主義国家としては別格だと言わざるをえない。

しかし、歴史を鳥瞰すれば、先進国と中進国と途上国、さらにはキリスト教国とイスラム諸国とアジアの国々を、経済的状況もさりながら人権状況において、ひとくくりにすることができないこと、それぞれの国がめざす解は短期的中期的に一つではないことも、また事実である。

天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 ~生前退位の問題

木曜日, 11月 17th, 2016

「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」が、本格化している。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/kaisai.html

有識者のヒアリングが既に2日間、これまでに11名実施されている。

そこでは、私には意外であるが、有識者意見には、生前退位そのものに反対、摂政で対応すべし、皇室典範の改正にも特別措置法にも反対、という意見が多い。

そもそも、この有識者会議の目的は、「公務の負担軽減」が主たるテーマのはずである。生前退位は、公務の負担軽減に関して、その重要な選択肢として検討すべきテーマという建て付けである。

有識者のヒアリングの質問事項をもう一度見ておこう。

(質問事項)
① 日本国憲法における天皇の役割をどう考えるか。
② ①を踏まえ、天皇の国事行為や公的行為などの御公務はどうあるべきと考えるか。
③ 天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として何が考えられるか。
④ 天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として、憲法第5条に基づき、摂政を設置することについてどう考えるか。
⑤ 天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として、憲法第4条第2項に基づき、国事行為を委任することについてどう考えるか。
⑥ 天皇が御高齢となられた場合において、天皇が退位することについてどう考えるか。
⑦ 天皇が退位できるようにする場合、今後のどの天皇にも適用できる制度とすべきか。
⑧ 天皇が退位した場合において、その御身位や御活動はどうあるべきと考えるか。

さて、論点について、順不同で考えてみたい。

まず③(高齢の天皇の負担軽減策)である。

現在の天皇の公務状況は、高齢の天皇にはきわめて苛酷なスケジュールになってしまっていることは、否定しうべくもないであろう。

なにが問題なのかを考えてみるに、国事行為・公的行為・宮中祭祀それぞれについて、天皇が自ら臨席して執り行われるものが、あまりに増えすぎ、多すぎる状況に陥っているというべきと思われる。

天皇の務めについては、天皇自ら執行するかどうか、代理・代読・代拝で済ませるかについて、優先順位はあってしかるべきである。

例えば、憲法上の国事行為については、可能であれば天皇自ら執り行うことが優先されるべきである。

だが、国事行為でないいわゆる公的行為については、高齢や病弱等の天皇の場合、あるいは健常な天皇であっても、できるだけ代理に皇族を立てるなり、宮内庁職員による代読に切り替えるなりして、天皇のスケジュールを過密にしないようにコントロールすることを、現状よりもっと積極的に励行すべきである。

さらに、宮中祭祀といった部分については、侍従や宮内庁職員による代理を立てて執り行うことを増やすことをさらに励行すべきであると思われる。

次に、④(摂政の設置について)である。

摂政の設置は、負担軽減策のうち、一つの選択肢としては、当然、ありうる。

今回についていえば、摂政は、皇太子が就任するべきこととなるだろう。

しかしながら、皇太子自身も、自ら臨席しておこなう公的行為は、年を追って増えているはずであり、おそらくそのスケジュールの過密度は、既に相当なレベルにのぼっているはずである。

現状のように、天皇の自ら執り行う国事行為・公的行為・宮中祭祀が過重になっている状況で、皇太子を摂政に立てて、天皇のおこなう国事行為・公的行為・宮中祭祀を摂政皇太子に振り向ければ、摂政として、また皇太子として、国事行為・公的行為・宮中祭祀が集中する皇太子のスケジュールと業務量がパンクしてしまうことになるように思われるのである。

それでは解決にならないというか、別の問題を生んでしまうだけのことになる。

昭和天皇と今上陛下は、特に国事行為・公的行為・宮中祭祀を自ら執り行うことを重視されてきた。

そういった歴代天皇陛下がそれぞれの思いで増やされた公的行為をそのまま引き継いでは、代を重ねるにつれて公務量がパンクすることは明らかである。

昭和天皇と今上陛下は、第二次世界大戦に対する贖罪のお気持ちを長年背負い続けてこられ、国民に親しまれる象徴天皇の形を確立すべく、国民に接する公務の機会の拡大を志向されるといった形で、尋常ならざる努力を積み重ねてこられた。

昭和天皇や今上陛下のご努力は、さまざまな公務を新たにお引き受けになるという形で、年々、公務の増大を招いてきた。今上陛下は、皇太子時代にも自身が公務を増やしつつ、昭和天皇がお引き受けになった公務を、大半継承された。皇太子時代の公務を現皇太子にバトンタッチしたとしても、バトンタッチしきれているのかも疑問である。

自分が始めた公務というのは思い入れのあるものであり、また、先代の天皇が始めた公務を引き継ぐ者は、そのままその思いを引き継ぐという重責を負うことになる。

「天皇も代わったのでもう止めます」「今後は天皇でなく皇族で代理してもらいます」とはただでさえ言いにくい、はなはだ憚りの多い公務削減作業であり、相当な困難を伴うものと思われる。

一方、公的行為に天皇が臨席するか、皇太子が臨席するか、どの皇族が臨席するか、代理代読で済ますか、というのは、行事の主催者側からすれば、格と体面に関わる関心事になってしまいがちである。

要するに、天皇や皇太子の臨席する公務は、増えるばかりで、リストラするのはきわめて大変なのである。

天皇や皇太子に、自ら思い入れがあるほど、先代の思い入れを継承しようとして受け止めようとすればするほど、後継者がまじめであればあるほどに、公務の軽減は難しくなる。

さらに、宮中祭祀についてである。宮中祭祀を天皇自らができるだけ執行をすべきなどというスタイルは、そもそも皇室古来の伝統ではない。

平安時代に4歳とか10歳といった幼少で就任した天皇も多かったことを考えればそれは容易にわかる。

冷暖房もない拝殿で、長時間、祭祀を主催するというのは、並大抵の体力・精神力でつとまるものではない。

相当な消耗を強いられるであろう。

だからこそ、江戸時代以前までは、摂政関白にもよらない、公家(公家というのはほぼ藤原氏か公家源氏であって、皇族ではない)による代拝が、ごく当り前だったのである。

明治天皇・大正天皇になって変わったかと言えば、江戸時代までの公家の代拝が、侍従(戦前は華族)の代拝になっただけのことである。

それが、昭和天皇の代(大正天皇の摂政就任以降)になってから、宮中祭祀を代拝で済まさず直接ご自身で執り行われることが格段に増えたようである。

これは、昭和天皇の責任感の尋常でない強さゆえであっただろう。

そして、そのスタイルが、今上陛下にそのまま引き継がれているようである。

宮中祭祀については、江戸時代には窮乏した朝廷ゆえに消滅していた祭祀もずいぶんあったようである。

が、明治時代になって、ある意味財政的裏付けもできて、天皇の権威を強化する思惑から、多くの宮中祭祀が復興され、また新たな祭祀が創始されたとされる。

つまり、ただでさえ、江戸時代の天皇よりはるかに宮中祭祀は過密スケジュールになっている。

そこに、明治天皇大正天皇よりも、昭和天皇や今上陛下ははるかに宮中祭祀を自ら執り行うようになった。

つまり、宮中祭祀だけでも、今上陛下の負担ははなはだ旧来より過重されてしまっている、ということであろう。

これは、相当に深刻な問題なのである。

むしろ宮中祭祀の侍従による代拝化、というのをかなり積極的に進めないことには、天皇の負担の軽減は覚束ない。明治以来の伝統だといってもその簡略化や廃止は簡単ではないから、おそらく侍従による代拝化くらいから進めるしかないであろう。

それを、代わりに摂政皇太子がやればよい、というのは、これまた、皇太子に大変な無理を要求する話なのである。

そもそも、皇族が摂政をやったのは、聖徳太子、中大兄皇子といった、日本書紀の時代の話である。

しかも日本書紀の時代には摂政という名称すら、あったわけではない。

日本書紀が後から、「まつりごと(政)をと(摂)った」者という意味で書いているのが、平安時代以降先例として採用されたものであるというべきである。

摂政は律令制に規定のない令外官であり、奈良時代にはそもそも正式な律令上の職として存在してはいない。

さらに、平安時代以降は、臣下である藤原氏しか、摂政に就任していない。

つまり、皇族でなければ摂政ができないということ自体、実は、日本の伝統ではない。

しかも、皇室の祭祀で代拝などをおこなうのも、別に必ずしも摂政ではなく、多くは祭祀を司る中級以下の公家であった。

摂政皇太子が代わりに宮中祭祀をおこなえばよい、という方向性に、私は、賛成できない。

摂政皇太子のパンクを避けるためには、祭祀の代拝は、摂政皇太子に振るのではなく、侍従や宮内庁職員にさらにアウトソーシングすべきなのである。

こういった憚って言いにくい背景があるからこそ、負担の軽減というのが、この有識者会議の表題にもなっているのではないだろうか。

質問事項には正面から書かれていないが、国事行為・公的行為・宮中祭祀を天皇が自ら執り行う範囲を縮小し、皇族はもちろん侍従や宮内庁職員による代理や代読や代拝で済ませるように移行していくことをもっと推進すべく検討すべきという点が、重要な要検討事項だと思われる。

それに重きをおいて答えている有識者があまりにいないのには、やや首をかしげるところである。

単に、摂政皇太子が代わりに執り行えばよいという回答は、きちんと現状の問題に回答したことになっていないのではないかと思うところである。

さて、摂政皇太子が代わりに行えばよいとして、皇太子の摂政就任と摂政への事務の以降をを実行してしまった場合に、どういう事態が生じるであろうか。

今上陛下が在位のまま、摂政に皇太子が就任したとして、皇太子が「これまでは天皇が直接臨席したり執り行ってきましたが、私が摂政になって以降は、侍従による代理・代読・代拝にできるだけ移行します」と、宣言して実行できるものだろうか。

今上陛下が自ら執り行うことへの長年お持ちの思いやこだわりを考えれば、摂政皇太子や宮内庁の侍従や官僚たちが、今上陛下在位のまま、今上陛下は一応口を出されないからといっても、摂政としてそのような公務軽減を実施するといっても、実際には、今上陛下の思いへの憚りがあまりに大きすぎて、結局実現が困難だろうと思われる。

となると、やってくるのは、摂政皇太子の国事行為・公的行為・宮中祭祀の殺到による、さらに悪い形でのスケジュールパンクである。

まだしも、今上陛下が生前退位によって一切の公務から身を引かれ、上皇として次代への一切の口出しはしないというご自制をいただいた上で、次代の天皇の公務や宮中祭祀の負担の軽減を、次代の問題として果断に処理することが、より新時代にふさわしいものというべきように思われる。

単に摂政を置けばよいという有識者の回答がいくつも見受けられるのであるが、公務の軽減という、有識者ヒアリングのテーマに実は十分に答えられていないように思われるところである。

⑥(天皇の退位について)は、私は、生前退位はありうるべきと思っているが、少なくとも今回は、皇室典範の特別措置法で対応するのがよい、という考えである。

まず、一部の評論家諸氏が挙げている理由として、天皇の生前退位が憲法上禁じられている、などというものがあるが、そのように憲法を読むことはおよそ不可能であると思われる。

そもそも、なぜ現行の法体系で生前退位がいまできなくされたかといえば、明治以降、戦後の改正でも、皇室典範に生前退位の規定が置かれていないからということに尽きる。

江戸時代までは歴代のうち約半数の天皇がおこなっていた生前退位が明治の皇室典範によってできなくなったということである。

生前退位ができないという伝統はたかだか明治時代以降のことであって、古来の伝統や1000年以上にわたり蓄積された先例にはむしろこの100数十年だけ反しているということもできる。

これは、幕末期に攘夷運動の理由として存在した「鎖国は皇国伝来の祖法である」などという誤謬と似ている。

伝統というのはどこまでも先例の積み重ねによって形成されていくものである。

現行の法体系で言えば、生前退位を予定していない(といって、明文上は禁止もしていない)皇室典範はあくまで法律のひとつである。

あらためて、天皇の生前退位が憲法違反だなどという意見は的外れであろう。

次に、天皇の生前退位は、天皇制がどうあるべきかという問題、すなわち法律(皇室典範)がどうあるべきかという問題であり、また、天皇の憲法上の位置付けに照らし、国民の総意に基づくことが望ましいということになる。

なにしろ、天皇の生前退位が起きれば、元号すら変わる。

だから、国会の議決による承認は、生前退位の都度、必要であろうと思われる。

しかし、例えば、国会の議決をその都度要するといったことを皇室典範に書くべきであろうか。

あるいは、退位は天皇の意思に基づく、と書くのであろうか。

国会の議決と天皇の意思を両方要件にするのであろうか。

高齢なら退位を認めるというなら高齢とは何歳であろうか。

高齢でなくても心身に支障を来すことはあるのではないか。

認知症に陥った天皇はどうなるのか。

事故や病気で植物人間状態になった場合はどうか。

精神に異常を来した場合、素行不良が過ぎて国民の信頼を失った場合、職務放棄の場合はどうだろうか。

英国王エドワード8世のような結婚問題から退位を希望した場合はどうか。

退位希望が結婚というよりLGBTを理由とするものだとすればどうか。

余命いくばくもないから公務から解放されて静かに暮らしたいと願った場合はどうか。
果たして、こういった事由を、皇室典範で列挙できるものであろうか。

それに外国の王位継承法ではそこまで列挙しているのであろうか。

こう考えると、実は、起こりうる合理的な生前退位の事由を、皇室典範で列挙して、かつ不合理の無いよう、さらに政治の側からも皇室の側からも乱用が起きにくいように、遺漏無く規定するというのは、そのような法改正作業自体が、大変な議論、へたをすると争論と紛糾を巻き起こしてしまう可能性が相当に高いのである。

特別措置法でなく皇室典範そのものに退位事由を記載せよ、という意見は、事情はよくわからないがなぜか野党議員がよく主張しているようである。悪く取れば、与党の方向性に対する政争の具として、国会で争論と紛糾を招かせるために主張しているのではないかと思わせるところがある。

法律の効力として、法律と特別措置法に優劣があるわけではない。

「皇室典範と特別措置法では、格が違う」ということであろうか。

そうだとすれば、それは情緒的な議論というしかない。

天皇の即位・退位・譲位、上皇の立ち位置も含め、宮中の決まりごとというのは、実は、先例の積み重ねである。

江戸時代までであれば、その都度公卿会議で決定されたことが有職故実として累積されているもので、いわば英米法系の、判例法、不成文法型の法体系ともいうべきものである。

天皇の生前退位については、明治より以前についてはほぼ半数の天皇が生前退位しているという現実がある。

その理由は様々であり、退位が適当であった場合も、退位の思惑によって混乱が生じた場合もある。

自然と、よき先例と、悪しき先例が歴史的に検証されて想定されてきたものである。

その都度公卿会議や幕府との協議の上、よき先例に適合するような形に配慮されて、生前退位が行われてきた。

そして、一旦、明治になって、皇室典範によって、全ての生前退位は悪しき先例として全否定されてしまった。

しかし、生前退位が、よき先例として将来的にも参考になる状況があるのであれば、再び、よき先例としての生前退位の事例を一から積み重ねていくことは、一概に否定するべきではないように思われる。

そう考えれば、現状の皇室典範では想定されていない生前退位について、特別措置法で今上陛下の退位を国会で議決しておこなうことは、シンプルに生前退位の一つの先例を積み重ねるという作業であって、国民の総意が今上陛下の退位を認めたいというところで収斂している以上、一番穏当で余計な議論の紛糾を招かない解決ということになる。

なにより、今上陛下の退位に関係のない、あらゆる退位の可能性について列挙すべく検討しなければいけないといった、議論の紛糾と争論の可能性を、賢明に避けることができる。

今後さらに、将来の天皇が生前退位すべき場合が発生したら、そのときに国民の総意を汲んだ国会で特別措置法として慎重に議決して次の先例を作ればよいというのが、私の考えである。

そういった先例が何回か積み重なったころ、たとえば100年後、200年後になって、皇室典範の退位の事由を定めてもよいと考える時代が来たとしても、不都合はないと思われる。なにしろ皇室は既に1500年以上、先例の積み重ねの上に、ゆったりと続いてきているのである。

皇室典範の特別措置法でなく、皇室典範そのものに退位の規定を入れよと力説する論者が少なくない。

しかし、その場合、皇室典範そのものに退位事由を入れるとして、単に高齢か心身の故障の場合だけ退位を認めるということだろうか。

その程度の規定だったら、たちまち別の事情に対応できないことになるから、その都度泥縄式に退位事由を追加していかざるを得ないこととなる。

それなら、別段、特別措置法をその都度定めることと大差がない。

高齢や心身の故障の場合に退位が問題になる都度、特別措置法の先例に照らし、その都度により国会の議決を得ることは、紛糾が生じるはずもなく、容易だからである。

が、あらゆる退位の事由を列挙すると、恣意的退位(政治の側からも天皇の側からも)の危険も高まってしまうのである。

そして、その退位事由を列挙する立法作業が現実にどれだけ余計な争論を巻き起こすか、論者にはあまり思いが到っていないないのではないかと思うのである。

というよりも、生前退位そのものに反対する論者は、退位の事由を定めることが恣意的退位を招くことを恐れているものと思われる。

だからこそ、生前退位を認めることそのものに反対し、それを回避するために摂政の設置でまかなうように主張していると思われる。

そして、生前退位反対論のもうひとつの根幹が、上皇と天皇の間での権威の分立を恐れる、という点である。

日本国憲法下の天皇には政治的権能(権力)がない。

だから、明治以前のような生前退位が生じても、「権力」の分立はおこらない。

しかし、「権威」の分立は起こりうる、というのが、生前退位反対論者の見解である。

こういった見解には、一理ある、と言える。

私は、退位した天皇は、公務からは全面的に身を引くべきであると思う。

現天皇と上皇が公務を分担するのは、望ましくない。

上皇が公務を望んでも排するくらいのルールを定めるべきであると思う。

公務を上皇が分担する、つまり一部でも関与すれば、上皇の回りに公務遂行スタッフが相当数つかざるをえなくなる。

そこには、公務という仕事に対する一種の縄張りや綱引きといった意識が生じるのは、避け難いと思われるからである。

天皇がカットしようとした公務を、上皇が、やはり自分がやる、と言ったらどうなるかを、考えてみればわかる。

天皇のスタッフと上皇のスタッフが公務遂行ラインとして併存するというのは、たしかに院政の悪夢の再来である。

言い方を変えれば、退位した天皇が公務からも宮中祭祀からも全面的に身を引いて、容喙もしないというルールが作れるのであれば、それでもなお生前退位そのものに反対するということにはならないように思われる。

今上陛下の公務量は明らかに異常な量であり、このような公務量を天皇自ら執り行うことを今後も続けていくことは、皇室制度の持続可能性に関わる。

皇太子の摂政就任期間は、大正天皇の際は約5年間であった。

が、今度摂政になればもしかするとそれが20年間になりかねないということは考えられないであろうか。

そのときに摂政が公務に耐えなくなるということもあるであろう。

そうすると皇太子は摂政を退任してただの皇太子となり、さらに次代の宮が摂政となって交替するのであろうか。

皇太子が今上陛下に先立ったらどうなるのか。

皇太子妃殿下は、皇后陛下になる機会もなく、その立場で皇族を統括したり、次代に範を示したり、公務などに臨む機会も失われる。

それで、次代への皇室の伝統の継承が円滑にできるのか、と懸念を、今上陛下が深刻に持たれて、皇太子が年を取り過ぎない間に皇位に就いて象徴天皇という立場を身をもって自覚して実践してもらいたい、と考えておられるであろうことは、もっともなことであると思う。

生前退位は摂政で代替できるという意見もあるが、現代の長寿化を考えると、ことは単純では無い。

なにより、80数歳までプライベートの時間も満足になくひたすら激務に従事し続けてきた天皇が、退位を希望して、残りの人生を皇太后と静かに過ごしたいと考えられているとしたら、それに対し、天皇は一般国民とは責務の重みが違う、といって、原則論で否定するのは、人としての素朴な心情にそぐったものではない。

欧州などの立憲君主制の王家の例を考えれば、退位による権威の二重化や分立といった事態を深刻に懸念するのは、神経質に過ぎる、というべきであろう。

我が身に照らして考えれば、辞めたくてもここまで無理に辞めさせてもらえないというのは、残酷ですらあると思う。

政治家や大企業の社長会長といった、よほどの社会的重責にある場合でも、さすがに引退させてあげればよいではないか、となるはずである。

こういった、国民の総意が納得するであろう、相当な高齢・健康といったもっともな理由があれば、特別措置法で今上陛下の退位を認めることに、目に見えた派生的悪影響とか不都合はないだろう。

むしろ特別措置法でなく皇室典範そのものに退位事由を記載するような改正を目指す方がよほど派生的議論と影響を生むように思われる。

そして、本来は、公務の軽減というベースを離れずに議論することがが、この有識者会議の一番の目的であるべきのように思う。

つまり、特別措置法で今上陛下の退位を承認し、合わせて、次代の天皇のもと宮内庁によって大胆な公務軽減を積極的に推進することが解決策として妥当、というのが、私の意見である。

なお、別の視点で、仮に今上陛下が生前退位して皇太子が皇位についた場合は、秋篠宮は皇太弟ではあっても皇太子になれない、東宮御所が使えない、東宮としての予算もつかない、という理由で、皇室典範そのものを改正すべきである、という意見もある。

その指摘には一理ある。

ただ、その解決は単に立法技術のレベルで簡単に実現可能なことである。

現行の皇室典範8条
「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」を、
「皇位継承第一順位の者を皇太子、皇太弟または皇太孫とし、皇太弟または皇太孫は皇太子に準ずるものとする」と改正すれば、ほぼ解決する。

この点についての改正であれば(生前退位後に生じる、皇族の身分関係の変動への対応が可能な改正についてであれば)、皇室典範そのものを改正してもなんら問題がないと思う。

というより、退位事由の規定は特別措置法による場合でも、皇族の身分関係の変動への対応については、立法技術として、皇室典範そのものを改正するほうがすっきりするように思われる。

山本太郎議員の園遊会問題

月曜日, 12月 2nd, 2013

この話題を出すと右派からも左派からも政治的にとられるので、ビジネス法務の世界に住む弁護士が触れるのは損な話題であるが、いろんな論説を読んでも今ひとつしっくりこないので、自分からの視点で書いてみたい。

1.天皇には国政の権能に属することでコミットメントを求めてはいけない

日本国憲法にてらしてあたりまえのことである。

第3条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第4条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

山本太郎議員に対する批判として、「手紙を渡すのは天皇の政治利用だ」というものがある。私は「政治利用」という言葉には、微妙に違和感がある。 むしろ「国政の権能に属する政治的課題について、天皇にコミットメントを求めた」ことが、日本国憲法にてらして、許されないのである。これは、戦前への反省から日本国憲法の大原則として定められたことであり、右派も左派も共通の理解である。

次に、山本太郎批判に対し、自民党政権が、高円宮妃久子をブエノスアイレスのIOC総会でスピーチをさせたり、主権回復の日記念式典に出席させたといって、逆批判する向きがあるが、この逆批判はまるで的外れだと思う。そんなことを非難したら、皇室が出席する政府行事やスポーツ振興関係の式典など大半がアウトである。冷静にみて政治的コミットメントとはとてもいえない。そして内閣の助言に基づいている。それだけのことだと思う。

2.天皇陛下に秘密保全法反対を訴えたこと

私が、山本太郎議員の行動で特にまずいと思うのは、以下の点である。 以下の東京スポーツのWebサイトでインタビュー記事が載っている。

http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/200284/

内容は?

山本:子供たちの被ばくや健康被害が福島だけではなく、この先、他にもたくさん出てくることや食品の安全基準が低い問題、  原発の高線量エリアで働いている作業員たちの健康や放射線管理があまりにずさんな話などです。また秘密保護法も通ってしまえば、権力者にとって原発事故も含め、都合の悪いことは隠されてしまい、戦前に逆行している、と。

 

なんで、天皇と秘密保全法が関係あるのだろう?全く理解不能である。山本太郎は宇宙人なのか。鳩山由紀夫のようなものかもしれない。戦前に逆行しているというなら、天皇制を否定し反発する方向にベクトルが働くだろうに、逆に天皇にわかってもらいたいと言って毛筆の巻き物で上奏するように信書を送るのだから、失笑するしかない。

マスコミの報道で、山本太郎議員が秘密保全法反対を天皇陛下に訴えたことは、驚くほど無視され、スルーされている。

マスコミは、第4の権力と言われるが、自らの基盤をゆるがすおそれのある制度改正には一致して反対してつぶしにかかる。たとえば、新聞の価格をカルテルで維持する再販制度の廃止には徹底して抵抗する。新聞社が、テレビ・雑誌・ネットなどのマスメディアのバランスで再販制度の是非を語ることは、今後もないだろう。若者の新聞離れはもはや絶望的なまでに進んでしまっているが。

秘密保全法反対の論調で、今マスコミは一色である。賛成論などは微塵もマスコミでは取り上げられることはない。反対となると大きく取り上げられる。わかりやすい。こればかりは右寄りと思われるメディアも反対一色である。これは単純な話で、マスコミが取材しにくくなる秘密保全法をつぶそうとするのは、自己保存本能による当然の生理的行動である。

公務員の守秘義務違反には今でも最高で懲役1年が課されるが、会社から企業秘密のコピー紙を持ち出しても窃盗だから最高で懲役10年である。民間企業であるメーカーも新聞社も、その程度には刑法で保護されている。そもそも公務員がコピー不可の役所の資料をこっそりコピーして持ち出せば窃盗罪で最高刑10年である。それが公務員が国の秘密を漏らすのは最高で懲役1年でなければ国民の知る権利が制限されけしからんというのは、冷静に考えればバランスがとれていない。果ては大新聞が、日本には守らなければならない秘密などない、とまで平然と書き立てる。 秘密保全法問題は、マスコミの報道は割り引いて考えなければいけない典型例であろう。

そんなマスコミの潮流一色のなかで、山本太郎議員が秘密保全法反対を天皇陛下に訴えたというのは、行為自体が常識外れでとても支持できることでは無いが、さりとてマスコミとしてはそれ自体を糾弾もしがたい。だから、秘密保全法反対を天皇陛下に訴えたという点はあえて無視して、スルーするのであろう。

3.毒物入りの手紙だったらどうする?

2003年11月 ホワイトハウスで手紙に封入されたリシンが検出。

2013年4月 バラク・オバマ大統領宛の手紙の中にリシンが混入されていることをシークレットサービスが発見。

2013年5月 ニューヨークのマイケル・ブルームバーグ市長あて手紙からリシンが検出。

 

アメリカで大統領などの要人に致死性の猛毒が混入した手紙が送りつけられている事件は記憶に新しい。山本太郎議員は知らないのだろうか? 要人に手紙を手渡すという行為は、極めてデリケートな行為である。天皇陛下や内閣総理大臣のような要職にある者に、事前のアポなしに、セキュリティのチェックなしに、手紙を渡してよいのか?よいはずはないであろう。周囲のシークレットサービスによる事前チェックが必須である。テロ対策の問題である。

山本太郎議員は、自分に対してアポなしで送りつけられてくる手紙もすべて自分で手渡しで受け取ったり開封して構わないと思っているのだろうか。あるいは山本太郎議員が、自分は天皇陛下に害を及ぼすわけがないから少なくとも自分はアポなしで手紙を渡してよいのだと思っているのだとしたら、あまりに傲慢で愚かである。他の誰でも要人に対して同じことをしてよいということになる。

というのが私の批判なのだが、さる11月13日に、山本太郎議員のもとに刃物入りの手紙が送られてきたのが発見されたという報道があった。これは脅迫であり犯罪というしかないが、要するに手紙を渡すにも要人側のセキュリティを考えないといけないということである。天皇陛下に直接手紙を受け取らせてしまって、侍従や警備担当者はセキュリティの甘さを露呈し、痛切に責任を感じて恥じているに違いない。罪なことをしたものである。

4.園遊会で前列に割り込んだ?

山本太郎議員は、園遊会で前列に割り込んだようである。お声掛けもない新米参議院議員が前列に並べるはずはないので不思議だと思っていた。 TBSの報道によれば、数時間前から並んでいた参列者の前列に割り込んで苦情を受け場所を移りながら、尚、別の場所で前列に割り込んだということのようである。

5.「陛下の御宸襟を悩ませた」と反省の弁

宸襟という言葉を、山本太郎議員が知っていたわけでは無いだろう。たぶん、右翼がかったスジからのクレームに出てきた言葉ではないかと思われる。 それにしても、「御宸襟」はない。「宸襟」であろう。しかも宸襟というのは天子の胸の内のことをいうので、「陛下の宸襟」というのもヘンである。用法が間違っていると言わざるを得ない。言葉を知らないのだから当然かもしれないと感じた。山本太郎議員がなお直接天皇陛下に会って謝りたいなどというのはぶしつけで失笑するしかないし、 二重橋に行ってお詫び申し上げているというのもいよいよ時代がかっている。

天皇陛下が山本太郎議員を気遣っているという報道が出るのも、天皇陛下の人間性が表れているとは思う。おおごとにされるほうが天皇陛下にとっても皇室全体にとっても負担になるからまして懸念されるのだろう。親しみやすくあるべきという戦後の皇室の立ち位置というものの難しさをよく理解されており頭が下がる。山本太郎議員にはそのような宸襟は理解の外であろう。だから直接会って謝りたいとか二重橋でという話になるのである。

一方、山本太郎議員が、宮内庁の職員や園遊会で割り込まれた列席者に対して申しわけない、と謝罪を表明しないところが、ひどすぎる話である。

それ以上に、天皇陛下になによりもまずなどと言ってあのように大仰にお詫び申し上げるより、まず、日本国憲法にお詫びを申し上げて欲しい、それがスジだろう、というのが、法律家としての感想である。なぜかこういった視点は、マスコミにもないようである。