Archive for 3月, 2018

藤井総太棋士が九段になる日

金曜日, 3月 23rd, 2018

藤井総太六段の活躍から目が離せない。

2016年10月1日、中学生にして、奨励会を抜けて四段昇段、プロ入り。

2017年6月26日、デビュー以来の29連勝の新記録達成。

2018年2月1日、名人戦の順位戦C級1組に昇級して五段昇段。

2018年2月17日 五段昇段後全棋士参加棋戦(朝日杯将棋オープン戦)に優勝し、六段昇段。

ちなみに、藤井総太棋士のデータベースは、日本将棋連盟の以下のサイトで見られる。
https://www.shogi.or.jp/player/pro/307.html

戦績が一番わかりやすいのは以下のサイトかと思う。
http://kishi.a.la9.jp/2017R/1307.html

29連勝が止まってから、2018年1月11日以来、2018年3月23日まで、16連勝と、ふたたび連勝街道を邁進している。

その16連勝の中で、現A級棋士だけでも、佐藤天彦名人、羽生善治竜王、広瀬章人八段、糸谷哲郎八段(次期A級に昇格決定済み)に勝利した。

既に、それまでに、屋敷伸之九段にも勝利している。

非公式戦も含めれば、佐藤康光九段、深浦康市九段、行方尚史八段にも勝利している。

藤井総太棋士に勝ったA級棋士は、現時点で、稲葉陽八段、深浦康市九段、豊島将之八段。いずれもA級棋士の中でも絶好調の棋士である。

まだ当たっていないA級棋士が、渡辺明棋王、久保利明王将、三浦弘行九段。

こうやってみると、藤井総太六段の棋力は、名人戦A級棋士らと既に対等以上である、といって差し支えないと思われる。

どれほどすごいことか。

高校の全国選手権クラスとなると、一般の将棋ファンからすると神の領域である。

大学トップクラスとなるとさらに高校選手権クラスなど苦も無くひねってしまう。

しかし大学トップクラスといっても奨励会三段にはほとんど勝てるものではない。

その奨励会も30人中、半年で2人しか四段に昇格できず、26歳の年齢制限で大半の会員は脱落して辞めていく。

四段昇格で晴れてプロ棋士となるわけだが、名人戦リーグに参加しても、A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5段階に分かれ、一番下のC級2組だけで50人が所属する。上位の棋士をなぎ倒す若手棋士もおれば、上の組から落ちてきた強豪棋士がひしめく。その中でC級1組に昇給できるのは年に3人だけ。

そのC級2組も全勝で1年で突破である。

藤井総太棋士は、実は、デビュー以来の29連勝中のあと、上位の棋士にかなり負けが込んだ時期がある。

しかしたちまち再び連勝を再開し、特にこの16連勝中の差し回しは、29連勝中に輪をかけて顕著に強くなっていて、A級棋士相手に対等以上の戦績を収めており、もはやA級棋士に交じっても最強と言えるレベルに達しているように思われる。

私も学生時代から将棋ファンではあったが、将棋部の同級生には飛車角香落ちでも簡単にひねられていた。

それでも将棋の定跡をいろいろ覚えこんだものだったが、羽生善治がタイトル戦に登場したころから、定跡の変化があまりに早くなり、また複雑化し、もはや全くついていけなくなってしまい、「見るだけ」に陥ってしまった。

それ以来、だんだん棋譜を見ることからも遠ざかってしまった。

子供心にカッコよかった振り飛車が戦法として落ち目になり、藤井システムには興奮したものの、居飛車優位の傾向が続き、さらに玉を囲わない急戦が当たり前になり、さらに居飛車穴熊などという戦法をプロが真面目に指すようになって、なにか、価値観が崩壊したような不思議な感覚に襲われることが多くなった。

ひさびさに注目したのが、「電王戦」(今の叡王戦)であった。

AI対、人間の棋士。

しかし、これも、コンピュータのAIプログラムで、自己対戦によるアルゴリズム強化が圧倒的演算量でおこなわれるようになったことで、もはや、「人間が勝てるわけがない」ことがはっきりした時点で、興味を失ってしまった。

そんな中で、藤井総太棋士の登場である。

玉を囲わない急戦が当たり前な現代の棋戦の中でも、藤井総太棋士の早攻めは群を抜いているように思われる。

とにかく、攻め出すタイミングが早いのである。

しかも、たいてい、自分から戦端を開く。

このあたりはAIの早攻めとよく似ている。

え?、無理して早攻めしてない?と思うくらいであるが、なぜかしのぎ切って勝ちに持って行ってしまうのである。

中盤終盤での正確な寄せが速く読み切れるから、多少無理な攻めでも相手が最善手を指し続けられないために、どこかで有効に成立してしまうのである。

羽生善治が7冠になったころ、圧倒的に勝ち進んでいたころが、まさにそういう差し回しだった。羽生マジック、と言われていた。相手のミスを誘うと。

が、藤井総太棋士の差し回しのほうが、序盤から一貫して、羽生善治の20代よりもはるかに正確、と言われている。

寄せ方は盤石。

詰め将棋で棋界随一の実力者であるが、ここまで実戦で強いのと両立する棋士はかつていなかった。

すべてが規格外である。

とにかくみていて気持ちいい。

何百人といるプロ棋士たちは、もはや、A級棋士も含めて、「藤井総太には勝てない」とあきらめの境地に入りつつあるような気がする。

その藤井総太棋士が、昇段において、九段まで上がれるのは、最短でいつになるのであろうか。

日本将棋連盟 棋士昇段規定
https://www.shogi.or.jp/match/dan_provisions/

昇段規定は、8大タイトルをとることで、七段までは比較的昇段はしやすい。

しかし八段への昇段は非常に条件が厳しい。

最高位の九段となると、八段になってからでないと昇段はできないので、たとえば、タイトルを3期獲得しても、一旦八段になっていないと昇段はできない。

つまり藤井総太棋士が九段になろうと思えば、どこかで八段になっておかないといけない。

その八段になる条件が、非常に時間がかかるのである。

羽生善治が九段になれたのは、タイトルを三期以上保持したうえで、名人戦A級に昇級した時点(23歳6か月)だった。

名人戦A級になるには、プロ入りから毎年昇級しても5年かかる。

つまりそもそも名人位に就いて九段に昇段するにはプロ入り5年以内は無理なのである。

ちなみに、ひとつだけ、五年以内に八段に昇段できる可能性は、「竜王位1期獲得」である。

2期で九段に昇段する。

ちなみに、竜王位挑戦だけで昇段する。

この昇段規定は、渡辺明五段が竜王に挑戦し一気に竜王位を獲得したころに少し緩和された条件で、渡辺明竜王はこれで竜王位を2期保持して、21歳7か月で九段に昇段した。

竜王戦は、竜王戦リーグの一番下の六組の棋士でも、予選トーナメントで各組の優勝者らをひたすら破って勝ち抜けば、実はプロ入り一年目でも竜王位への挑戦は可能である。

藤井総太棋士は、一年目は六組では優勝したがその上のトーナメントで敗れた。

しかし、翌年の竜王戦リーグではどうだろうか。五組優勝から、挑戦者となり、羽生善治竜王を破る、という可能性は、いまでも既にA級棋士の絶好調棋士以外は藤井総太棋士に勝てない状況からして、十分にあり得るものと思われる。

王座獲得→竜王位獲得→もう一つのタイトル(王将くらいがありうる)獲得で、九段になれるわけであるから、2019年前半には、九段に昇段してしまう可能性があるのである。

昔からの将棋ファンには、九段といえば、大山康晴、升田幸三、中原誠の三人、ほぼタイトルホルダーというイメージであった。

まさにヒーローとあがめる領域であった。

その後、勝ち星やA級在籍年数で八段から九段に昇段できる規定変更のためにずいぶん九段が増えたが、子ども心にヒーローはいつもその三棋士であった。

歴代の九段の中で、文句なしに上記三名と並び崇めるべき存在と言えば、谷川浩司、羽生善治がまず挙がるであろうか。

佐藤康光、渡辺明、森内俊之がそれに次ぐ存在だろうか。

藤井総太棋士は、どうやら、「谷川浩司・羽生善治・藤井総太」と、同時代に生きて、それぞれ自分の時代を築いた三人の棋士として、並び称される存在となるように思われる。

升田・大山・中原の三巨頭がヒーローとして並び称された時代の再現というべきであろうか。

オールド将棋ファンの心を、40年の時を経て、童心に帰ったようにワクワクさせてくれる、新しい将棋ヒーローの出現と、今回の将棋ブームの始まりに、まことに心躍る日々である。

精神疾患に関する労災認定について~財務局の決裁文書書き換え問題

金曜日, 3月 16th, 2018

森友学園に対する土地払い下げに関し、近畿財務局で文書の書き換え(改ざん)がなされていたことが判明して、大きなニュースとなっている。

朝日新聞は平成30年3月2日付の朝刊で、近畿財務局が契約当時に局内の決裁を受けるために作った文書の内容が昨年2月の国有地売却問題の発覚後に国会議員らに開示した決裁文書の内容と違っている、と報じた。

さらに、近畿財務局で、決裁文書作成(書き換えにも関与?)当時の担当職員が、昨年秋頃から体調不良で休職しがちになっていたところ、3月7日に自殺したというニュースが流れている。

痛ましい流れになってしまっている。

決裁済の公文書を訂正印で対応するのでなく差し替えてしまうと言うのが言語道断であることは論を待たない。

公文書偽造・虚偽公文書作成罪などの可能性も取り沙汰されているが、決裁権があるものが了解して作り替えた場合、さらに結論や理由の本質的部分にわたらない場合には、そういった罪が成立するかは、必ずしも定かでは無い。

しかし、公文書の決裁に関する規程を逸脱した、ルール違反の行為であったことは疑いをみないわけで、関与した者がラインごと軒並み懲戒処分になることは避けられないと思われる。

さらに、報道されているところによると、自殺した担当職員が、休職前に月100時間の残業をしていたこと、おそらく上司の指示で決裁文書の書き換え作業をさせられていたであろうことが報道されている。

この報道をみて、私が感じたのは、なんともいえない痛ましさとともに、「労災適用になるだろう」というものである。心理的負荷の要因としては、長時間労働と、業務に関して違法行為を強要された(それがマスコミにより公になった)、という2点に該当することになるように思われる。

メンタルヘルス型の労災認定は、申請されるうち認定される率は3割台で推移しており、業務上災害とされる割合は決して高くない。しかし、3割台という数字は決して低くはないとも言えるだろう。

最近5年間の精神障害の労災認定件数の統計は以下である。

平成28年度「過労死等の労災補償状況」を公表:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000168672.html

表2-1 精神障害の労災補償状況
http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11402000-Roudoukijunkyokuroudouhoshoubu-Hoshouka/28_seishin.pdf

メンタルヘルスから自殺まで到った事案は、年間百数十~二百件程度である。

そして、メンタルヘルス型の労災認定基準は、以下のものである。

精神障害の労災認定
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/120427.html

基労補発1226第1号
平成23年12月26日
都道府県労働局労働基準部長 殿
厚生労働省労働基準局
労災補償部補償課長
心理的負荷による精神障害の認定基準の運用等について
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/dl/120118b.pdf

この、メンタルヘルス型労災の、労災認定基準の判断プロセスと要素は、非常に多岐にわたるが、判断要素は

精神障害発病前おおむね6か月の間に、当該精神障害の発病に関与したと考えられる業務によるどのような出来事があったのか、その出来事の心理的負荷の強度はどの程度と評価できるか

である。その中でも、実務上特に重要視されるファクターが、

超過勤務時間が過労といえるレベルだったかどうか

である。

超過勤務時間についていえば、上記「心理的負荷による精神障害の認定基準の運用等について」の中で、以下のように記載されている。長くなるが引用する。

ア 極度の長時間労働による評価
極度の長時間労働は、心身の極度の疲弊、消耗を来し、うつ病等の原因となることから、発病日から起算した直前の1か月間におおむね160時間を超える時間外労働を行った場合等には、当該極度の長時間労働に従事したことのみで心理的負荷の総合評価を「強」とする。
イ 長時間労働の「出来事」としての評価
長時間労働以外に特段の出来事が存在しない場合には、長時間労働それ自体を「出来事」とし、新たに設けた「1か月に80時間以上の時間外労働を行った(項目16)」という「具体的出来事」に当てはめて心理的負荷を評価する。
項目16の平均的な心理的負荷の強度は「Ⅱ」であるが、発病日から起算した直前の2か月間に1月当たりおおむね120時間以上の時間外労働を行い、その業務内容が通常その程度の労働時間を要するものであった場合等には、心理的負荷の総合評価を「強」とする。項目16では、「仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった(項目15)」と異なり、労働時間数がそれ以前と比べて増加していることは必要な条件ではない。
なお、他の出来事がある場合には、時間外労働の状況は下記ウによる総合評価において評価されることから、原則として項目16では評価しない。ただし、項目16で「強」と判断できる場合には、他に出来事が存在しても、この項目でも評価し、全体評価を「強」とする。
ウ 恒常的長時間労働が認められる場合の総合評価
出来事に対処するために生じた長時間労働は、心身の疲労を増加させ、ストレス対応能力を低下させる要因となることや、長時間労働が続く中で発生した出来事の心理的負荷はより強くなることから、出来事自体の心理的負荷と恒常的な長時間労働(月100時間程度となる時間外労働)を関連させて総合評価を行う。
具体的には、「中」程度と判断される出来事の後に恒常的な長時間労働が認められる場合等には、心理的負荷の総合評価を「強」とする。なお、出来事の前の恒常的な長時間労働の評価期間は、発病前おおむね6か月の間とする。

ごくかいつまんでいうと、別表1の項目16において、
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/dl/120427_4.pdf
・80時間未満の時間外労働の場合に「弱」(他の盲目で評価されない場合のみ)
・80時間以上の時間外労働の場合に「中」(他の盲目で評価されない場合のみ)
・発病直前に連続2ヶ月間120時間以上の時間外労働または連続3ヶ月間に100時間以上の時間外労働の場合「強」
ということになる。

1ヶ月100時間程度の時間外労働が恒常的に続いていた場合は、上記の「ウ」に該当するから、他の出来事(3段階で「Ⅱ(中)」程度のストレス要因)と合わせて、「強」程度に属する心理的負荷があったと認定されやすいであろう。

そして、本件では、決裁権者の指示でも無い限り自発的にこの様な書き換えを末端の担当者がおこなうとは通常考えられないから、平成23年版の心理的負荷による精神障害の認定基準によれば、「業務に関連し、違法行為を強要された」として、心理的負荷として、Ⅱ(中程度)に該当する可能性が高い。

また、本件の場合、マスコミに公になることによって、決裁文書の書き換えを担当した者は、責任を問われることが相当な確実性で見込まれる。これは、「会社で起きた事故、事件について、責任を問われた」として、心理的負荷として、Ⅱ(中程度)に該当する可能性が高い。

中程度以上の出来事が2つ以上存在する場合は、心理的負荷は、「強」または「中」とされる。なお、「強」になるか「中」になるかは、近接の程度、出来事の数、その内容を考慮して全体を評価することになる。

決裁文書書き換えからマスコミへの発覚までには6ヶ月は経過しているようであるが、本件では、6ヶ月以内の昨年秋で既に発病しており、またその後マスコミにより公文書書き換えの事実が発覚したことにより、さらに心理的負荷を生じたといえるから、合わせて「強」と評価される可能性は高いように思われる。

このような生生しい時点で、労災認定基準への当てはめをおこなうことには、正直躊躇もあるが、精神障害の労災認定のシミュレーションとしては非常にわかりやすい事例である。

従業員や公務員が、上司に指示されたり、または暗黙の了解で、業務上、違法行為や隠蔽行為に加担させられて、精神的に追い詰められて自殺をするという事件は、報道に接する度、あまりに痛ましく、およそあってはならないことである。

だからこそ、精神障害の労災認定基準でも、平成11年以来、ファクター(出来事)の中に、「違法行為を強要された」ことを掲げている。

本件では、ある意味、労災認定されやすいファクターが揃ってしまっているように思われる。

本件で仮に労災申請がされた場合に、労働基準監督署が、労災申請を却下するとは考えにくい。

労働基準監督官も、公務員として、決裁文書の書き換えをさせられる、さらにそれが発覚してマスコミで大々的に取り上げられる、ということのおぞましさは、痛いほどよくわかっていると思われるからである。

振り返って、マスコミ報道で、もとの文書と書き換え後の文書があれこれ比較されているが、そもそも、もとの決裁文書が長々と不要なことを書きすぎているように思われる一方で、削除したとされる部分も、別に政治家から財務局への口利きや働きかけがあったと書いているわけでもないから、わざわざ書き換えるほどでもなくて、仮に国会で問題になっても正直に答弁するか、あるいは詰めずに決裁文書と異なる答弁をしてしまったのであれば答弁の方を修正すればよかっただけのようにも思われる。

財務省・財務局のやっていることの、つたなさ、見苦しさに、首をかしげる、というのが正直なところであるが、その結果は、あまりに痛ましいものであった。

あらゆる組織のリーダーたるものは、もって他山の石とすべきニュースである。

単に批判するのはいささか安易で、批判するにしても、どこまで自分の問題として引きつけて考えられているか、が問われるところである。

JASRACは音楽教室団体に勝ったの?

金曜日, 3月 9th, 2018

今日は、著作権について書いてみよう。

ニュースでも流れているところであるが、平成30年3月7日付で、「音楽教育を守る会」がおこなった一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)に対する裁定の申請を認めないとする内容の裁定を文化庁が行った。

文化庁:著作権等管理事業法に基づく裁定について
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1402106.html

ニュースの字面だけみると、文化庁が、JASRACを勝たせて音楽教室を敗かしたように聞こえてしまう。

しかし、上記のURLを辿って、内容をよく読めば、別に全然そんな内容ではない。

文化庁はJASRACを勝たせてもいなければ、もちろん敗かせてもいない。

裁決の結論は以下の主文に書いてある。判決でも主文というのが結論である命令となる。

 主 文
平成 29 年6月7日付けで一般社団法人日本音楽著作権協会から文化庁長官に届出のあった使用料規程については,音楽教育を守る会が求める実施の保留は行わず,著作権等管理事業法第 24 条第3項に基づき,本裁定の日をもって実施の日とする。

これは、JASRACが届け出た使用料規程の実施時期を延期しない、というだけの意味である。

一方、別に、「音楽教室を守る会」は、JASRACに対して平成29年6月20日、訴訟を提起し、現在、東京地方裁判所において係属中である。

音楽教室を守る会
https://music-growth.org/

JASRACによる音楽教室における著作物の使用料徴収に対し、東京地裁に「音楽教室における著作物使用にかかわる請求権不存在確認訴訟」を提起しました
https://music-growth.org/topics/170620.html#box-psc01

正確にいえば、同会に所属する249社が原告団を結成し、JASRACによる音楽教室における著作物の使用料徴収に関し、音楽教室でのレッスンには著作権法に定める演奏権は及ばず、JASRACの徴収権限は無いことを確認するための「音楽教室における著作物使用にかかわる請求権不存在確認訴訟」を東京地方裁判所に提起した、というものである。

要は、音楽教室がJASRACに使用料を払わなければいけないかどうかは、あくまで裁判によって決着がつくべき話である。

おそらく音楽教室もJASRACも引くことはないと思うので、最高裁判決まで至ることになるであろう。

では、この文化庁の裁定というのは、いったい、なにを審理していたのか。

本来ただの民間の社団法人であるはずのJASRACが、通信カラオケの月額使用料から、あるいはテレビ・ラジオ局から、あるいは音楽を流すカフェなどの店舗そのほか音楽の著作権法上の利用に該当する行為をしている利用者に対し、いきなり訴訟を起こしたりして、著作権使用料を請求できる根拠は、「著作権等管理事業法」という法律に基づくものである。

JASRACは、著作権管理事業法に基づき、指定著作権等管理事業者として、指定されている団体であり、2001年以前は許可制であった(JASRACは許可を得ていた)が、2001年以降は届出制となっている。

指定著作権管理事業者は、なにもJASRACだけではない。

こんなにある。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/kanrijigyoho/jigyosha/index.html
一般社団法人 日本音楽著作権協会
協同組合 日本脚本家連盟
協同組合 日本シナリオ作家協会
公益社団法人 日本複製権センター
一般社団法人 日本レコード協会
公益社団法人 日本芸能実演家団体協議会
有限責任中間法人 出版物貸与権管理センター

残念ながら私もJASRAC以外ほぼ知らない。100パーセント独占ではないということだけ知っている。

それくらい、音楽著作権管理の業界は、圧倒的にJASRACの寡占が生じており、実際は事実上独占に近い。

独占禁止法で違反として分割すべきではないかとまで批判されるのも、わからないではない。

さて、では、指定著作権管理事業者が、どんな事業から使用料を徴収できるのかは、実は、著作権管理事業法にはなにも規定されていない。

著作権管理事業法13条1項により、指定著作権管理事業者は、使用料規程を定めて、文化庁に届け出なければならないとされている。

届出であるから、文化庁は、届出された使用料規程を否定(たとえば却下したり不受理にしたり)は、できない。

もっとも、指定著作権管理事業者が使用料規程を定めたり変更しようとするときは、利用者又は団体から意見を聞く努力義務(13条2項)、公表義務(13条3項)、使用料規程の届出から実施まで30日を置く義務(14条1項)がある。

さらにいうと、その使用料規程が著作物等の円滑な利用を阻害するおそれがあると認めるときは、文化庁は届出受理日から3か月(最大6か月)を超えない範囲内で実施日を延長することができる。

また、指定著作権管理事業者は、利用者から協議を求められれば協議に応じなければならず(23条2項)、協議が成立しないときは文化庁に裁定を求めることができる(24条1項)。

さて、それであれば、著作権のもめごとはなんでもこの裁定で決めてもらえるのだろうか、といえば、実は全然そうではない。

この裁定が決めてくれるのは、当該使用料の金額・料率などの条件だけである。言ってみれば高いか安いか。

24条6項において

 使用料規程を変更する必要がある旨の裁定があったときは、当該使用料規程は、その裁定において定められたところに従い、変更されるものとする。

とされているのがそれである。

つまり、「音楽教室が著作権使用料を払う必要があるかないか」「音楽教室が教室内の演奏により音楽家の著作権を侵害しているか」「いくらを損害賠償として支払え」というのは、文化庁の法24条裁定の審理の対象ではない。

あくまで裁判所が判決で決めることなのである。

だから、上記の文化庁裁定は理由中でこう書いている。長くなるが引用する。

 申請人は,本件裁定申請とは別に,その会員の一部を原告,相手方を被告として,本件使用料規程が対象とする音楽教室における著作物の使用に関して相手方に請求権がないことの確認を求める訴えを提起し,東京地方裁判所において現に係属中である(以下「別件訴訟」という。)ところ,申請人は,そのことを理由として,別件訴訟の判決が確定するまで本件使用料規程の実施を保留することを求めるものである。しかし,仮に申請人の求めるとおり保留するとすれば,保留されることとなる期間は一義的に明確ではなく,また,仮に上告審まで争われる場合には長期間を要する可能性があり,その場合には著作権等管理事業法が定めている上記の実施禁止期間を大幅に超えてしまうこととなる。したがって,別件訴訟の判決が確定するまで本件使用料規程の実施を保留することはできないと考えられる。
 また,仮に別件訴訟が早期に終了する可能性がある場合であっても,そもそも,著作権等管理事業法においては,原則として,当該利用区分に係る個別具体の利用行為に著作権等が及ばないと利用者が主張していることを理由として,文化庁長官に届出のあった使用料規程の実施を裁定によって保留することは予定されていないと考えられる。
 なぜなら,上記「2」記載のとおり,著作権等管理事業法においては,使用料規程が届出制とされており,届出制のもとにおける使用料規程の実施の効果は,利用区分ごとの使用料の額等が明確化されるにとどまり,それを超えて,当該利用区分に係る個別具体の利用行為に著作権等が及ぶことを公に認めるというものではなく,当該利用区分に係る個別具体の利用行為に著作権等が及ぶか否かについては,著作権等が及ばないことが一義的に明らかである場合等は異なる扱いをすることがあり得るとしても,当事者間による協議,それが妥結しないときは最終的には司法の判断により決定されるということが予定されていると考えられるからである。
 翻って本件を見ると,別件訴訟における争点である相手方の請求権の存否については,法律分野に係る有識者からもその判断が容易ではない旨の意見陳述があったところであり,本件使用料規程については,少なくとも,著作権等が及ばないことが一義的に明らかである場合等(注3)には当たらない。このことを踏まえると,当該利用区分に係る個別具体の利用行為に著作権が及ばないと利用者代表が主張していることを理由として,文化庁長官に届出のあった使用料規程の実施を裁定によって保留することはできないと考えられる。
 以上のことから,申請人の求めるとおり,別件訴訟の判決が確定するまで裁定によって本件使用料規程の実施を保留することが妥当であると認めることはできない。また,このように,裁定によって本件使用料規程の実施を保留しなかった場合であっても,そのことは,当該利用区分に係る個別具体の利用行為に著作権が及ぶことを公に認めるものではなく,この点については司法判断に委ねられるものであることは上記のとおりである。

裁定は、くどくどしいくらい、音楽教室の音楽の利用行為に著作権法が及ぶかどうかについては司法判断にゆだねられるものであること、文化庁が著作権管理事業法で裁定するものではないと言っている。

裁定では正面から争いにはなっていないようであるが、仮にJASRACの利用料規程が高いか安いかを判断しようにも、司法判断が確定しないと無理だ、ということになるのであろうか(少なくともJASRACの利用規程が不当に高額かどうかは現時点でも裁定申請にはなじむと思うのだが、音楽教育を守る会が全面的に戦うという姿勢からすると、腰折れな争い方になるのでその係争方針はとらなかったものと思われる)。

なお、裁定の末尾において、文化庁は、JASRACに対して、かなり釘を刺している。長くなるが引用する。

 上記のとおり,裁定によって本件使用料規程の実施が認められるとしても,当該利用区分に係る個別具体の利用行為に著作権が及ぶか否かは司法判断に委ねられるべきものである。このため,確かに,相手方が本件使用料規程に基づき使用料徴収行為を開始する場合には,その態様如何によっては,申請人が指摘するとおり,当該徴収行為により社会的混乱が生じるおそれが考えられる。この点,相手方は,文化審議会著作権分科会使用料部会に提出した平成30 年2月1日付け文化庁長官宛文書において「演奏権が及ぶことを争う者に対しては,演奏権が及ぶかどうかの争いがある使用態様につき,司法判断が確定するまでは個別の督促(利用許諾契約手続の督促・使用料の請求)は行わない」こと(ただし,「演奏権が及ぶ(相手方の使用料請求権が認められる)との司法判断が確定した場合には,契約手続督促・使用料請求業務を保留していた音楽教室事業者に対しては,使用料規程が実施された日以降の使用料相当額を遡及して請求する」こと)を提案しているところであり,社会的混乱の回避のため,演奏権が及ばないと主張している音楽教室事業者に対する配慮が期待されるところである。また,演奏権が及ぶことを争わない者に対して使用料の請求を行う場合であっても,本件使用料規程において規定する料率を上限とし,利用者の利用の実態等を踏まえ,適宜協議を行うなどにより適切な額の使用料の額とすることも期待されるところである。
 以上のことを踏まえ,文化庁長官として,相手方に対し,本裁定とは別に,本件使用料規程の実施に当たって社会的混乱を回避すべく適切な措置を採ることを求めることとする。

特に最後の一文などは、予想以上に、余計なくらい、JASRACに釘を刺しに刺しているという印象を感じるのは私だけだろうか。

裁判官なら判決でこの最後の一文は書かないであろう。

一歩間違えれば蛇足である。

行政庁の裁定だからか、ある意味大岡裁き、というべきか、採決で行政指導をしているというべきか。

それ以上に、ほう、と感じたのは、

個別具体の利用行為に著作権が及ぶか否かは司法判断に委ねられるべき

という一文である。

これは、意外に意味が大きいと思われる。

音楽教室における練習に対して、「公衆に対する演奏」であるから著作権侵害である、と主張するJASRACの論理には、「味噌もくそもいっしょにして金をとろうとしている」という批判は、かなりの程度妥当せざるをえないと私は感じている。

なぜなら、音楽教室では、教師や生徒が楽譜を購入して使用料を払い、発表会ではホールやスタジオなど演奏会場の使用料を通じてJASRACに使用料を払っている。

つまり、仮に音楽教室が使用料を払っていない部分があるとすれば、通常は、先生と生徒、あるいは生徒単独での練習の場面くらいであろう。

「JASRACは、練習を、「公衆」に対する演奏と言うのか?」というのが、今回の音楽教室訴訟において疑問の生じる、重要なポイントなのである。

通常は、公衆は、鑑賞目的で聴きに来る公衆のことを言うし、そこに限定して事足りると思われる。この見解に絶対的・公権的解釈があるわけでは必ずしもないが、少なくとも長い間そういう感覚が世間では一般的だったと思われる。

社会通念上そうでしょう、というべきか。

もちろん音楽教室での演奏でも、発表会となると公衆に対する演奏だろうが、練習を鑑賞目的で聴きに来る公衆などというのは、仮にいたとしてもまれで(例えば3歳5歳の子供のレッスンに親が同席した場合に、親は公衆だというであろうか。さすがにJASRACもそうは主張しないだろう。あるいはグループレッスンで他の生徒の鳴らす楽器の音を聞いたものは聴衆だろうか。これもこじつけのように思われる)、それを理由にJASRACがレッスン料全般から利用料を取る理由になるのだろうか?というのが普通に沸く疑問である。

レッスン料というのは音楽家がレッスンをする指導の対価ではないのか。

せいぜいそこに場所代が入っている程度ではないのか。

そういう疑問が出て当然である。

こうやって細かく分析していくと、レッスンを「公衆に対する演奏である」と、言いくるめようとする、JASRACの請求は、一般人にとっては、詭弁に聞こえかねない微妙なものである。

JASRACが音楽業界のあちこちに使用料規程の網掛けを広げてきてことごとく勝訴してきたことは確かであるが、さすがに音楽教室の練習から徴収とは、まさか、長年誰もそんなことは考えたこともなかった、と思われてきた、理論的にも空白の領域であろう。

公衆に対する演奏と言うには、あまりにニッチでせこいところを狙って網を打ってきた、というのが、今回のJASRACに対する私の評価である。

なお、著作権法の法学者としての大家である中山信弘東京大学名誉教授が、音楽教室側で意見書を書いている。

https://music-growth.org/topics/180205.html

中山信弘教授は西村あさひ法律事務所に所属しているわけで、意見書自体が手前味噌と受け取られる可能性はあり、また思ったほど整理されていないようにも思えるが、示唆的な記述は多い。

少なくとも私は、生徒と先生の間での、本番でない練習における演奏を、公衆に対する演奏ということには、違和感があるを超えておよそ否定的である。

そこまでの保護が著作権法において想定されているとも思われないし、必要とも思えないということである。

著作権法が「音楽指導」により対価を得ている行為に対して著作物の利用であると定めているのであればさておき、著作権法にはそんな定めはない。

だからこそJASRACは、公衆演奏権を徴収の根拠に持ち出してきたのである。

指導であっても、最低限楽譜を買えばできると思われるところであるが、そもそもレッスンのときに生徒の持っている楽譜を少し見れば、その場で暗譜で鳴らしてしまうのが指導者というものである。

発表会など本番における演奏に対して、ホールやスタジオなどの使用料を通じて徴収すれば通常は事足りる(もちろん音楽教室がそういう設備を備えていれば徴収は可能と思う)というのが、社会通念に照らした常識的理解ではないかと思われるところである。

そもそも音楽教室の練習で音楽を習うものが増えるほどに教材となる楽譜の売上には貢献すると思われるのである。

楽譜を売るという行為には、これで練習してください、それには1人1冊買ってくださいという意味がこめられており、そこに、楽譜の所持者が練習することの許諾は含まれているであろう。

モーツァルトの時代から、作曲家は楽譜を出版して生業とし、他の音楽家がそれを教材として家庭教師などをして音楽指導に用いてきたわけで、でも、音楽を教える先生の報酬については楽譜代と別にその都度著作権法上の利用にあたるから作曲者に金を払え、などという理解は、およそ伝統的にそう理解されていたとは言い得ない。

JASRACは音楽教室だけでなく個人教授であっても将来的に徴収の例外ではないことをWebで宣言している。

2018年4月1日から楽器教室における演奏等の管理を開始することになりました(JASRACサイト)

http://www.jasrac.or.jp/news/18/0308_01.html

本件管理対象の範囲 
楽器メーカーや楽器店が運営する楽器教室を対象とします。これらの教室の管理水準が一定のレベルになるまで、当分の間、個人が運営する楽器教室については管理の対象としません。将来的に管理の対象と考えているのは、ホームページなどで広く告知や広告して不特定多数の生徒を常時募集しているような場合を想定しています。

個人の先生がホームページを持っていて、そこで生徒随時募集と書いてしまうと「不特定多数」というべきだからほぼアウトで、いずれJASRACから警告が飛んでくるようである。

レッスンにおいて、先生につかずに楽譜だけで独習できるのは、ほぼ音楽を生業とするプロである。

いや、独習だけで済むのは、さらにそのプロの一部だけであろう。

みんなが楽譜で独習できれば、プロの音楽家は指導者として食い詰めてしまう。

練習中にわずかに先生が生徒に手本をみせたら、というより指導に使うこと自体が公衆に対する演奏であるというのが、JASRACの見解なのである。

これまたニッチな極端な、ということになるのも当然である。

ただ、これを極端だと思うか当たり前と思うかは、裁判官の現場感覚にかかっているのかもしれない。

あるいは、音楽出版社は、楽譜に、「この楽譜は音楽指導には使えません。その場合は別途著作権者に利用料をお支払いください」と書き込むようになるのであろうか。

それが時代の変遷ということなのか。

著作権者集団のベースを構成しているプロの音楽家たちの生業を支えている音楽教室の、しかも本番ではない練習の場面だけを、公衆に対する演奏だとして使用料を取るというのは、一歩間違えれば、音楽業界の自殺にも近い。

一方で、モラルの低い音楽教室で楽譜を個人的利用の範囲を超えて違法コピーするようなことがあれば、それは著作権侵害となるわけである。

が、それを取り締まるべきであるという視点は、公衆演奏権の侵害とはおよそ別の問題であり、その償いに音楽教室に著作権使用料を払えと言うのは理屈として成り立たない無理筋であり、またJASRACもそんなことは言っているわけではない(JASRACが音楽教室において楽譜が違法コピーされる場合があることを音楽業界の自殺に等しいと苦々しく思っていた可能性はあるが)。

JASRACの収入に多少でもあずかれるような音楽家は極めて一部である。

一方、それを裾野で支える圧倒的にほとんどのプロは、音楽指導を生業にして暮らしている。

JASRACからの収入にあずかれるトップの音楽家たちも必ず裾野をくぐり抜けてきた立場であり、トップの音楽家たちは、裾野の音楽家たちに支えられる運命共同体においてたまたま上にたどり着くことができただけの幸運な(もちろん才能は必要であるが)存在である。

JASRACが踏み出したものは、音楽業界の自殺ではなく、ごく少数のトップによる裾野の搾取、なのかもしれない。

このJASRACの動きに対する、音楽家たちの複雑な思いが透けて見えるようである。