ジブリ「風立ちぬ」感想

(注:ネタバレを含みます)

宮崎駿監督が「風立ちぬ」を制作した際のドキュメンタリーを、先日NHKで再放送していた。棒読みの庵野秀明監督を主人公の堀越二郎役で起用した理由が映画館で見た当初からさすがにわからなかったが、番組中で「頭がよくて寡黙」としきりに宮崎駿監督と鈴木Pが話していた。

あの起伏のないオタクっぽい話し方が堀越二郎にぴったり、ということなのだろう。

それを機に、久しぶりに「風立ちぬ」の録画を見直した。

この作品、結核をモチーフに様様な要素をミックスした作品であることはすぐわかる。

メタファー(暗喩)の多いスノビッシュな話とは感じていた。

改めてネットでいろいろな謎解きのサイトを見た。

結核をモチーフとした堀辰雄「風立ちぬ」。

軽井沢での出会いは、堀辰雄「奈穂子」。

奈穂子の最初の登場シーンはモネの「日傘をさす女」(モネの最初の妻で結核死)

幻想で何度も登場する飛行機設計家カプローニ伯爵は、ゲーテ「ファウスト」のメフィストフェレスのオマージュ。

カストルプ(軽井沢のホテル同宿の謎のドイツ人。モデルはスパイのリヒャルト・ゾルゲ)が軽井沢をトーマス・マンの「魔の山」(結核のサナトリウムがテーマ)に例える。ラストシーンはやや魔の山を彷彿とするか。

宮崎駿の母親は結核で死去。奈穂子の母も同じく結核死。

モチーフの引用元はごった煮であるが、結核で妻が亡くなる悲しみがテーマである。

この作品、一貫して、人の死や苦悩の書き込みが薄い。切迫感、現実感が希薄である。表現が抑制的。二郎の庵野の声の起伏のなさがそれを支える。

作品の賛否が分かれる点として、「二郎は自分勝手、他人に関心がない」「奈穂子がかわいそう」という感想・批評も多い。

奈穂子の病気が進行していくのに、二郎は戦闘機の開発に時間的にも精神的にも注力しており、積極的に奈穂子のために時間を割いたり喜怒哀楽を示すことがない、と見えるからだろう。

奈穂子の側が二郎を思い行動する、というのが、二人の基本的な関係性である。

この二人の関係性は、もともとから、奈穂子が二郎に惚れて始まっている。

関東大震災で奈穂子とお絹を助けたときも、二郎は帝大の学生らしいノブレス・オブリージュよろしく、淡々と命懸けで人助けをする。

ちょっとした冒険行でロマンスの揺籃となったわけだが、二郎はどちらかというと女中のお絹に感心を寄せる設定である。奈穂子はまだほんの子供であった。

軽井沢で再会して名乗りあったとき、奈穂子は、真っ先に、お絹が結婚して子供がいることを話題に出す。これは二郎の心からお絹を追い出す確認作業である。二郎は無反応であるが、確認作業はさりげなく完了している。

既に奈穂子は結核に罹患している(母から感染)。ストレプトマイシンが発売される前。一歩間違えれば痩せ衰えて死んでいく時代。

快癒しない限り結婚生活はまずかなわないことを自覚している。

紙飛行機をモチーフに二人は思いを交換。

そして「会議は踊る」の「ただ一度だけ」。ピアノを弾くカストルプ、二郎、奈穂子の父が合唱。

恋も喜びも今の瞬間ただ一度だけかもしれない、逃してはいけない、といった、恋の歌である。

直後、二郎が奈穂子の父に突然の交際承諾の申込み。

父親が結核のことを念頭に躊躇するも、奈穂子が階段を降りながら、その話お受けしてくださいと即答。そのままプロポーズとなり、承諾。

二人とも燃え上がっての大ロマンスである。

唐突感はあるが、戦前としてはこの出会い方だけで十分な大ロマンスが成立する。

戦前のこの時期、堀辰雄「風立ちぬ」が大ロマンス作品として著名だったが、表現は極めて抑制的なものであった。

奈穂子が喀血。二郎は東京まで駆けつけ庭からあがって伏せっている奈穂子に接吻する。二郎が奈穂子に熱烈な行動を示すのはこのあたりまでだろうか。

その先が淡々としている。

二郎は名古屋で戦闘機の開発に再び没入。

奈穂子は八ヶ岳・富士見台のサナトリウムに入院。堀辰雄「奈穂子」と同じである。

二郎が奈穂子に手紙を書くのはいいが、4行もすると「仕事が」の文字。あとは仕事の話を書いているのだろう。これでは、信州までは会いに行けないというメッセージになっている。

女心のわからない朴念仁、と現代ならば女性に激怒されるか相手にもされないか、嘆かれる話である。

手紙を読んだ翌朝に奈穂子はサナトリウムを抜け出し、荷物も持たず、二郎に会いに名古屋に電車で向かう。

名古屋駅での再会。

奈穂子は「ひとめ会えたらすぐ帰るつもりだった」というが一人で立っていられない。

二郎「帰らないで」と。

「ここで暮らそう」という二郎。

二郎を見上げてうれしそうに微笑む奈穂子。

奈穂子は「やっぱり帰る。迷惑だから」とは言わない(笑)。

その夜のうちに、結婚前の男女を一緒に住ませられないと言う上司黒川が結局は媒酌をして急遽結婚の儀という、大ロマンスである。

婚約は許されても快癒前提であり、結核が悪化した病床にあっての結婚は本来は家同士で話をすれば無理。素封家ならなおのこと。それを周囲構わず突き進んでしまう。

ここは物語のクライマックスでもある。

この流れは、ほぼ奈穂子の一方的な「押し」の流れである。

二郎から動くのをひたすら待っていては寿命が尽きてしまうのである。

今で言えば、草食系オタク男、「逃げるは恥だが役に立つ」の主人公の平匡と、平匡を誘導するみくりのようなものだろうか。

快癒前提の婚約はともかく病床下の結婚が成立してしまったのも、世情に無頓着な二郎ゆえ、といえる。

奈穂子としてはそんな二郎ゆえ残り少ない人生の夢がかなっていったのである。

なお、堀辰雄「風立ちぬ」の節子と「私」は、婚約状態でサナトリウムの日日を過ごして節子の死を迎え、結婚には到っていない。

結婚後も、奈穂子は病床にあり、上司の家の離れで日中は一人伏せって上司の妻が看病しているのだろう。家事ができているようには見えない。二郎は当然ながら戦闘機の開発に忙殺である。

帰宅後夜中も、設計図の修正作業。

奈穂子が手を繋ぎたいと言って、二郎は机を擦り寄せ、左手を寝ている奈穂子と繋ぐが、二郎はたばこを吸いたいので別室に行きたいと言う。

が、奈穂子はこのまま吸えばよいと言って、二郎はタバコを吸う。

軽井沢のホテルでも吸っていたように、当時は普通でも今ならヘビースモーカー。

このシーンは、映画上映当時からとんでもない身勝手な喫煙礼賛と叩かれて大炎上していた。

ちなみに宮崎駿はヘビースモーカー。タバコが創作活動に不可欠な力の源泉である。

二郎の妹加代が来訪。

節子は二郎の口添えもあって家族の反対をおして医学部に進学していたが、加代は、「奈穂子さんが可哀想」「顔色悪いのを隠して毎朝化粧しているのに」と。

加代は幼少の際に二郎が約束を忘れて待ち惚けをくらっていたので二郎の他人への無関心をわかっているのである。

二度目の加代のバスでの来訪の際、二郎は戦闘機の飛行実験のため数日不在。

加代の乗るバスと入れ違いに奈穂子は書き置き3通だけを残して徒歩で駅の方に向かう。

加代が「山に帰る」という奈穂子の書き置きを読んで、すぐ奈穂子を止めに行こうとするのを、上司の妻が、「行かせてあげましょう。一番きれいなところだけを見ておいて欲しかったのね」と制止。

二郎は、戦闘機の飛行実験に臨み、成功。成功した瞬間、風の異変に気付く。それが奈穂子の死を表している。

二郎は飛行実験成功時に、奈穂子が家を出たことも知らなさそうで、家を出た当日の死とも思われるし、飛行実験中の数日内であることは確実である。

奈穂子はサナトリウムに帰ってすぐに亡くなったのだろうか。

いや急すぎる、自殺ではないか、という感想もネット上にはある。

「二郎は空想好き、美しいものが好き、美しい飛行機が好き、戦闘機が人殺しであることも目を背けている、奈穂子への愛も美しいからだけで表層的、だから奈穂子も嫌われたくないから美しいところだけを見せて美しいと思われているうちに去ったのだ」という批評がある。

その推測の延長に「美しい記憶を残して自殺したのでは」という推測も出てくる。

しかし、自殺というのは、「風」のイメージではない。

肺結核では喀血死がしばしば起きる。奈穂子は寝込むほどの重篤な身で、加代と会うのを避けてか、バスにも乗らず徒歩で駅に向かった。

あるいは信州帰途の車中での喀血死だったのではないかというのが私の推測である。

奈穂子の死は、二郎の戦闘機の開発成功と同時だった。

軽井沢の物語は、二郎の戦闘機開発失敗直後、二郎の傷心の中での静養という形で始まった。

二郎は、奈穂子との出会いの中で、戦闘機開発への生きる力を取り戻した。

生きる力を得て二郎は名古屋に去り、一方、奈穂子は結核を悪化させ喀血した。

東京に駆けつけた二郎の奈穂子への接吻はその後も登場するが、感染を考えると無謀というしかない。

しかし、ふれあうことは、二郎と奈穂子のお互いにとって、生きる力の交換を意味するのであろう。

二郎は戦闘機開発を何より大事にして奈穂子をほったらかしにしているようでありながら、実は開発の力の源は奈穂子にあるのである。

奈穂子がこの世に生きる意味をつなぎ止めているのは、二郎である。

寝所で伏せる奈穂子が創作活動にふける二郎を呼んで手を繋ぐこともまた、生きる力の交換である。

その交換作業が、二郎においては戦闘機開発の成功となって結実し、その瞬間に、奈穂子はその生を終える。

ラストシーン、夢の中、戦争に敗れ飛行機が無残に破壊された廃墟の丘を超えたところで、奈穂子が現れて「生きて」という言葉を二郎に叫び、風となって消える。

ところで、この物語は、なかなかに、庶民や市井の感覚からは離れた人物を描いていることに注意を要する。

二郎は裕福な家庭に育ち帝大(東京大学)卒。航空技術者。

ちなみに宮崎駿は、航空機開発の大企業の役員の子弟で学習院大学卒。

奈穂子は軽井沢に長逗留できドイツ語やフランス語も口をついて出るほどに嗜む資産家の家庭に育つ令嬢。

二郎は、頭脳は明晰で、技術に美しさを見いだし、技術者として優秀だが、自分の関心に集中してしまうほうで、周囲の人の心情に結構無頓着。

対人関係の処理は一見大人で無難であり、女性に対する感情もあるが自分からはアプローチはせず、感情表現は淡泊ないし希薄で、仕事や好きなことに集中すると女性や家族は頭から離れて放置といっていい状態になる。

空想が大好きであるが、社会的には能力も高い上に破綻なく順応している。

ノブレス・オブリージュ精神はあっても、日常部分で他人の目に対するアンテナの幅と、場の空気が読めているかは、疑問が残る。

苦笑せざるを得ないが、高学歴者には結構よくいるキャラクターである。

芸術家ならもう少し破綻気味だと思われる。

奈穂子は、薄幸な一途な女性と描かれているように語られることもあるが、果たしてそうだろうか。

軽井沢で再会してから二郎の心を掴むまでの奈穂子は、それなりに戦略的である。

2度目の再会で、イーゼルを林の入口において奥の泉に立って、そこで告白するのは、けれん味を感じて不思議もないが、言われた男は当然嬉しい。

二郎はお絹に好意を持っていたはずが、奈穂子に好意をぶつけられ、お絹が子供を産んだ話をされ、いつの間にか関東大震災当時まだほんの少女だった奈穂子が最初から好きだったという記憶に置き換わってしまいそれを口に出す。

二郎が紙飛行機を飛ばし、奈穂子は二郎のフィールドを面白がっていっしょに遊び笑い、あっという間に二郎の心を捉えてしまう。

二郎からすれば、ふられる心配は全くない。

奈穂子は、結核のことで逡巡する父もおいて二郎の求婚に即答してしまう。

当時の常として、結核に罹患し治療中の身で、嫁いで家事育児で夫を支えるような普通の結婚生活は無理である。

戦前であれば、まず、お互いの家から反対されるところから始まる。

しかし、そういった葛藤は描かれない。

二郎との再会を逃さず、一気に婚約に邁進した奈穂子は、怖い物知らずの令嬢育ちの無頓着者ともいえる。

軽井沢での出会いは、もともと奈穂子が惚れていて、命短し恋せよ乙女、もう二度とないだろう短い再会に、乾坤一擲思い立って二郎に思いをぶつけ、あっさりプロポーズを引き出した、というわかりやすいロマンスといえる。

思えば、サナトリウムから抜け出したり、名古屋の家からも突然去ったりと、奈穂子も、必ずしも周囲への手順や配慮を重んじるタイプではない。

まっすぐに自分の思いを実現させる女性である。

奈穂子のそこが宮崎駿にとっては理想なのだろう。

二郎と奈穂子は、ある意味似合いのカップルである。

社会的境遇だけでいえば二人の出会いにはまずドラマ性はない。

結核というのが唯一のドラマ要素である。

奈穂子は二郎に放っておかれているようで、二郎が航空機開発に熱中していることもいとしく見ている。

「私か仕事かどっちが大事?」などという質問はおよそ出ない。

仕事に没頭する二郎のところに自分が行けばいいという割り切りがある。

二郎とふれあう時間がほしいから、赴くいていく。

高原のサナトリウムを出て名古屋で夫婦生活に入ることが自分の寿命を縮めることはわかっていても、トレードオフと割り切っている。

二郎も、奈穂子を名古屋で床につかせていては奈穂子の寿命を縮めることはわかっている。

でも、トレードオフとわかっていても、また日中は戦闘機開発に没頭して奈穂子を構えなくても、結婚して一緒に暮らし夜のわずかな時間を触れあって過ごすことを、迷わず選ぶ。

加代が指摘するように奈穂子の病状は既によくなかったのであり、二郎も奈穂子も快方に向かわず悪化することがわかっているのである。

二郎と奈穂子は、このトレードオフをお互いに納得して選択していることを承認しあっている。

このトレードにおいて、奈穂子の命と生きる力を、二郎は一方的に吸い上げたのだろうか。

おそらく、二人の生きる力の「交換」だったと思う。

好きな男の妻となり触れ合い心を通わす。奈穂子は二郎に迎えられ喜びの中、生きている証を日日積み重ねるのである。

その結実が、戦闘機の開発成功であり、そのトレードオフは奈穂子の命。

奈穂子は戦闘機の開発完了を見極めて名古屋の家を去る。

奈穂子の行動基準はどこまでもワキではなく、シテ役である。

戦闘機の開発成功が奈穂子のおかげというのはそういう意味である。

考えてみると、二郎もさりながら、奈穂子も、結核患者で寝込んで看病まで含め上司の黒川夫妻の家に転がり込んで好意に甘えているわけで、周囲への気遣いや遠慮より、素直に周囲に甘えて自分の意思を通してしまう、育ちの良さがあり、お嬢さん的ともいえる。

二郎にとっては、奈穂子への愛も、戦闘機開発への愛も、空想への愛も、紛れもなく本物であり、ある意味、両立・鼎立が社会的破綻なく無理なくできている。

が、傍目の女性の目には、奈穂子との時間の共有や関心をおろそかにしていると見透かされている。

なんとなく、二郎のような人物は、高学歴者全般、芸術家、技術者、実業家、多忙なビジネスマンなどに多いかと思われる。

何十年も夫がこうだと、妻の情熱は当然続かないと思われる。妻の諦めで低値安定することに期待するしかないだろう。奈穂子は余命わずかであるから、美しい物語になるとも言える。

奈穂子は、死を迎える前に、名古屋の家を去る。

止めに行こうとする加代に対し、黒川の妻が「止めない方がいい、美しいところだけをみてもらいたかったのよ」と言う。

同じ女性としての感想である。

しかし、奈穂子としては、美醜の問題ではなく、余命とトレードオフに生の充実感と美しい思い出の達成感を胸に、死期を覚り、黄泉に自ら向かったようにも思う。

象が死ぬ前に象の墓場に赴くという話にも通じるところがある。

戦前に結核でサナトリウムに入るというのは自ら黄泉路へ赴くイメージであり、サナトリウムは娑婆世界と彼岸世界の挟間というイメージである。堀辰雄の物語はその世界を透明に描いて美しいと評価された。

オーソドックスには、奈穂子はやせ衰えて美しくなくなる姿を二郎に見せたくなくてその前に去った、というのが劇中人物の解説であり、それは理由の一側面ではあるだろうが、奈穂子の強さと割り切りを俯瞰すれば、その見方は人間的でエモーショナルではあるが、私には、どうもいまひとつな解釈とも感じる。

二郎の人物設定として、妻が結核で痩せ衰えて死んで行くのを見たとして美醜の問題で幻滅したり嫌いになるという理屈は無理がある。

それでは堀辰雄の物語のオマージュすらも成立しなくなる。

二郎のノブレス・オブリージュの精神は、関東大震災以外の場面でも、いじめられっ子をかばい、シベリアを道ばたで留守番の子達にあげようとしたりと、一貫して繰返し描かれる。

但し、それが、二郎が「空気読めてる」かどうか、また二郎が日常「空気を読む」ことに価値を置いていたかは全く別の問題ではある。

そもそも奈穂子の朝化粧も、気付いていたか怪しい。

つまり、加代と黒川の妻の感想は、傍目の女性から二郎と奈穂子を見た上で、奈穂子が去った理由の合理化とみるべきかと思う。

奈穂子の書き置きは3通あり、二郎、黒川、加代、それぞれに宛てた理由はそれぞれに存在するはずである。

奈穂子の寝起きの様子は最後の方で目に見えて朦朧と悪くなっている。

加代が診察しても、やはり即座の入院を指示したとも思われる。

奈穂子が加代の来訪と入れ違いに名古屋を去ったのも、あくまで、自分で去ることを決めて選んだもの、とも思われる。

あるいは、さすがに、上司の黒川夫妻の家で看取られて、結核患者が死んだ家などと風評を立てられるのは避けなければいけない、という遠慮は奈穂子にはあったはずであるが、そんなことは物語では書かれていない。

宮崎駿「風立ちぬ」は難解なメタファーに満ち満ちており、劇中人物の感想、種明かしを、そのまま奈穂子が立ち去る理由として信じられるほど、素直な作品ではないように思う。

堀辰雄「風立ちぬ」でも節子の死は描かれない。節子は、自分の命と死をもって、主人公に「生きて」と呼び掛けるための存在なのである。堀辰雄「風立ちぬ」も、ある意味、男の自己陶酔のもとに書かれた作品である。

ラストでカプローニは奈穂子のことを「風のような人だった」という。

宮崎駿「風立ちぬ」で、奈穂子の死が描かれず、風の異変としてだけ二郎に察知させたのは、出会いと別れで「風が立つ」というプロットとして既定のことだったのだろう。

プロット中「風が立つ」各場面のライトモチーフとしての意味合いはいろいろだが、奈穂子の死を風として描くことは核として不可欠だったろう。

奈穂子が上司の黒川の家で病死してしまっては、風のようなというイメージに合わない。

奈穂子は、風として死を描かれるために名古屋の家もこの世も風のように立ち去った、というのが、このプロットにおける端的な、奈穂子が最後に名古屋の家を立ち去った理由のようには思われる。

いややはり奈穂子は死の看取りまで二郎に求めていたのではないかといった議論をしても、それは物語の構成を揺るがすに足りない、やや埒外の感想になると思われる。

この映画の賛否はジブリファンの間でも結構分かれており、「風立ちぬ」の二郎のことを好きになれない、奈穂子が可哀想、あるいは奈穂子のことを好きになれない共感できない、という受け取り方は、一定数、根強く存在するようである。

奈穂子は、男にとって都合のいい女性像として描かれていると、女性がみてしまって共感されないおそれが、常に一定割合で存在する。

戦闘機の開発成功のための、下手をすれば肥やし扱いは、多くの女性は嫌だと思うだろう。しかし、愛する男に連れ添うことに自分の残り少ない生きる力の注ぎどころを見つけたのだと考えると、話は変わってくる。

大正・昭和の純文学、特に私小説系は、多分に男の自己陶酔から女性を見ているような作品が多い。

宮崎駿「風立ちぬ」の視座はそもそも多分にそうだともいえるし、一方で奈穂子の行動をつぶさに見れば決してそんな浅い描き方ではないとも言える。

宮崎駿は、知的にも、芸術的にも、経営的にも、才能と努力を重ねて鼎立させていた巨人である。

宮崎駿自身が、空気を読むことに半自覚的に鈍感で思いを押し通しても周囲に許されながら、職業生活と家庭生活もまがりなりに両立させてきたと思われ、ここで妻への感謝と申し訳なさを示しているのかもしれない。

「風立ちぬ」は何層もの読み方ができる話であるが、ぱっと見は、二郎・奈穂子は、知的エリートの男とお嬢さんの組み合わせという、大正・昭和の純文学の王道の組み合わせとも言えるし、イマドキの巷に溢れた高学歴草食系男子と割り切り女子の組み合わせとして「逃げ恥」世代に受け入れられたとも言えるのかもしれない。

結論。改めて、二郎も奈穂子の物語はよかったほうに一票。

飛行機関係、夢関係の話は、結構興味深かったけれど、マニアックすぎて厳しいので割愛。

西村幸三

lawfield.com

京都・烏丸三条にある法律事務所を運営。ニュース・法改正・裁判例などから法務トピックを取り上げていきます。