日本学術会議

日本学術会議について、話題になっている。

定員210名の日本学術会議は、任期6年、半数の105人が3年ごとに改選される。

日本学術会議 会員・連携会員 名簿

http://www.scj.go.jp/ja/scj/member/index.html

会員は、過半は60代、一部50代、ごく稀に40代という、相当にロートルな構成である。

およそ構成バランスがロートルに過ぎて、実務的に委員会活動や組織運営ができているとはとても思えない。

「象牙の塔」プロパーの研究者のなかでも、相当上層部の、管理部門・決裁官的役職にいるものが大半なのだから、なおのことである。

透けて見えることは、2000人ほどもいるという無給の「連携会員」に、立場が下の若手研究者を動員して、ただ働きさせて、「成果」は、委員の名前で発表するわけだろう、ということである。

アカデミズムの業界で、よくある話を、国の機関を舞台に、若手研究者のみならず、50人ほどの事務局職員や、あるいは各省庁のバックアップという名の下に官僚までをおそらく使い倒して、エラい研究者たちが活動されているのであろうか。

会員に、女性研究者はかなり少ない。

若手研究者に到っては、ほぼ入る余地がない。

学界で功成り名遂げたといった面面で、プロパーでない研究者、例えば、公務員として勤めながら研究活動をしたり、退官して学界に転じたり、民間企業から学界に転じたりといった、中途組の研究者はおそらく少ない。

民間の研究所所属の会員がそれなりにいるのは、人選に配慮しているようだが、概して研究所の所長レベルと高齢であり、女性会員も高齢であり、お客さま扱いが透けて見える。

実務家という面でみれば、技官も多い自衛官、警察官、海上保安庁、あるいは最高裁判所・法務省民事局・刑事局(裁判官・検察官)などから選ばれている様子はない。

象牙の塔が圧倒的に支配しながら「女性にも民間にも配慮して加えてますよ」、という上から目線の雰囲気が見え見えである。

アカデミーなのに、そもそも文系の会員の比率が多すぎるように感じる。

しかも法学部の教授が異常に多い。11人だろうか。

拒否された人が今回だけで3人もいるわけだから、210人中、14人が法学者だというのである。これはひどい。

アカデミーに法律研究者がここまでのさばるのは、たぶんおよそ世界標準ではない。

「社会科学」も「人文科学」も「科学」だ、というのは、日本語の語感としてはまかりとおるかもしれないが、違和感は尽きない。

日本学術会議法

第二条 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
 一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
 二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

日本学術会議の目的と職務は、あくまで「科学(science)」であり、「科学者」の機関である。

クラシカルには、「科学者」とまでいう場合、自然科学が中心であろう。

法律学者をして科学者とは呼ぶのは、およそ普通の語感ではない(笑)。

法律学者が、自分のプロフェッションを聞かれて、「私は科学者(scientist)です」と言ったら、さすがに失笑ものである。

社会科学(者)や人文学(者)を「科学」「科学者」の一部と読む込むのは、それなりに新しい感覚のもとでの概念であり、ワンクッションを要する。

日本学術会議にこんなに法律学者が幅を利かしているのは、「科学アカデミー」というより、日本の大学組織における学内政治のヒエラルヒーと強弱のシェアが持ち込まれた結果のように思われる。

科学に疎い文系学部が強い日本の大学において、さらに法学部の優位(法律家は声が大きい。悪しき隣人でもある)をそのまま持ち込んだら、こうなる、という感じの構成である。

日本学術会議に関して、マスコミのニュースで読む研究者たちのコメントや意見表明の、高飛車さ、傲慢さ、また自らの無謬性を声高に唱えてやまない様子は、違和感を通り超えて、不愉快さを感じざるを得ないだろう。

日本学術会議には、本来、1000人ほどの会員候補の推薦が来るそうであるが、それを選考委員会において105人にまで絞るそうである。

そして、日本学術会議は、3年前の2017年には、105人+α、つまり110数名を内閣府に推薦していた。

内閣府はそのなかから数名を除いて105名を選任している。

しかし、2020年の今回は、日本学術会議は、この前例に反して、105名しか推薦してこなかったという。

もともとが1000人の候補から選考しているというのであれば、150人くらい適任者の名前は内閣府に挙げられたはずである。

内閣府から、2017年には余分に推薦するように日本学術会議に求めていたのに、日本学術会議が前回のような協議もせず、105名ちょうどしか推薦せずに、105名全員を任命せよといわんばかりの、踏み絵を踏ませる、頑なな態度を取るに到った。

いわば、日本学術会議が内閣府にケンカを売って、マスコミで炎上させるようにしかけた、推薦人事をマスコミと政争の具として日本学術会議が提供した、いう構図である。

その結果が今回の6名の不任命となっている。

不任命となった、松宮孝明立命館大学教授は、早速、テレビ取材において、

「ここ(日本学術会議)に手を出すと内閣が倒れる危険がありますよ。なので、政権は撤回するなり早く手を打った方がいいですよ。これは政権のために申し上げておきます」

と発言した。

川勝平太(早稲田大学政治経済学部教授。もと学校法人静岡文化芸術大学学長・理事長。なお、早稲田大学政経学部卒・同博士・オックスフォード大学D.Phil)静岡県知事は、10月7日定例会見で、

「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見したということではないか。菅義偉さんは秋田に生まれ、小学校、中学校、高校を出られて、東京に行って働いて、勉強せんといかんと言うことで(大学に)通われて、学位を取られた。その後、政治の道に入っていかれて。しかも時間を無駄にしないように、なるべく有権者と多くお目にかかっておられると。言い換えると、学問された人ではない。単位を取るために大学を出られた」

「もう一つはおかしいことをされたと思う。こういうことをすると自らの教養が露見しますよ、教養のなさがですよ、ということについて言う人がいなかったというのも本当に残念だ」

と話した。

驚愕の低学歴者蔑視発言、人格と学歴をいっしょくたに蔑視したマウンティング発言である。

法政大学卒者(菅義偉氏)にしてこの扱われようである(ちなみに川勝平太氏は早稲田大学政経学部卒である)。

ほとんどの市井の民を敵に回したと言ってもよい。

いや、学歴で人の上下を判断する選民主義者といわざるをえず、軽蔑の対象というべきだろうか。

川勝平太氏は、10月12日には、
訂正する必要は全くないと思っています。菅総理の学術会議の6人を入れないのは学問に対して本当に大切にしている人かどうか私は疑問を持ちました」

として、撤回も拒否した。

学界は、いわゆる「象牙の塔」と評されることがあるように、閉鎖的・排他的・攻撃的・権威主義的・上から目線で世間知らず、高慢な高学歴顕示集団だと、しばしばみなされがちである。

「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という言葉がある。

大学教授、小中高等学校の先生、医師、弁護士、税理士等のサムライ業など、「先生」「士」が就く者が、謙虚さを欠き、世間知らずで常識無しの馬鹿である、と、市井の者が冷ややかに見ていることに、当の「センセイ」自身が自覚せず、「悪しき隣人」になりがちであるということを言っている。

私も「センセイ」の端くれとして、常に、自省し、市井の方と接するにあたって、つとめて謙虚であるべく、自戒しているが、なかなか至らない。

しかしながら、研究者の場合は、なにしろ、「学(問)歴」の軽重そのもののがステイタスの上下関係を決定するわけだから、狭い世界でそのマウンティングの応酬に一生涯とプライドをかけて余念が無いわけで、まことに始末が悪い。

日本の学界のように、象牙の塔の外では通用せず、職も得られず、大学や研究所にしがみついていないと食べていけない研究者が大半という空間では(これも文系のほうが深刻であろう。各大学が、目先の収入確保のため大学院生の大量生産に走りながら、産業界に通用する人材を育成する能力がなく、その自覚も責任感もなかった)、一層、アカデミズム内でのマウンティング合戦に勝ち抜かざるを得ない切なさがある。

実は、学歴や立ち位置が中途半端な研究者ほど、人を見下すマウンティングが激しいとも言われる(本当にトップエリートの経歴と実績を経てきた研究者は概して謙虚であるともいわれる)。

このようなアカデミーの集団において、中層部・下層部に身を置く、若手研究者や、女性研究者は、形容しがたい理不尽やハラスメントに見舞われることもあるだろうし、その中を生き抜かなければならず、誠に不幸である。

個々の研究者には、まことに尊敬できる人物が多い一方で、アカデミズムのヒエラルヒーがむき出しになったときのアンタッチャブルさと傲慢さ、魑魅魍魎ぶりは、剣呑を通り越して一種のファッショ性を感じる。

さて、日本学術会議をどうしたらよいのか、私ならこうするという案はある。

以下のような案である。一言で言えば、推薦権のオープン化である。

1.「産・官・学」が対等に連携する場として、105人のうち、おおよそ35人づつ、「産」「官」「学」に、推薦母体を分ける。すなわち、①民間(日本工業会、各種研究所、シンクタンクなど)②各省庁③日本学術会議から推薦する。

2.内閣府における最終選考の際、60歳以上、50代、40代、30代以下(年齢は任期の最後の時点の年齢とする)におおよそ均等に、また男女比もおおよそ1:1にするように選考する。

3.年齢や性別の内訳調整のため、各団体は候補を余分に推薦し、内閣府が選考する。

すなわち、「産」「官」「学」が、対等に、日本学術会議の会員の推薦をおこなうことにするのである。

こうすれば、日本学術会議は、産・官・学が、「本当の意味で」「対等に」連携する場となる。

「行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的」とする日本学術会議法の目的にも適合する。

研究者としてのキャリアは短くても、技術・実務・オペレーションに精通した、企業内部の研究者・官僚から研究者に転じた者・官界の技官や研究所にいる者・在野の研究者からも人材を集められる。

各省庁の技官、警察官、海上保安官、自衛官、裁判官・検察官(最高裁判所・法務省民事局・刑事局付)など、実務に精通し、技術面、理論面でも研究者が裸足で逃げ出す優秀な実務畑の人材を、迎えることができる。

若手研究者・女性研究者の立場に立った活動が期待できる。

象牙の塔=学界のヒエラルヒーの上から目線の基準でなく、オープンに、産官学の人材を集められる。

プロパーでない研究者・若手研究者・女性研究者が、産官学の情報を交換し、交流し、ネットワークを構築し、コラボレーションできる場となり、学術的な発展が期待できる。

若手研究者、女性研究者の登竜門となる。

既存の学界の推薦枠等の縄張を容易に打破できる。

すなわち、日本学術会議に象徴される、「学界」なるものの推薦権の独占の打破、既得権益の打破、学界のヒエラルヒーの打破、学界の上から目線の打破が、可能となる。

米国の大学がアフリカ系米国人に大学定員を傾斜配分するがごとく、若手研究者、女性研究者、実務家研究者に門戸を開く、といえばわかりやすいだろうか。

しかし、こういう改革は、象牙の塔の研究者たちのうち、特に高年齢の研究者、各大学や学会の上層部などから、猛反発・猛抵抗を受ける可能性があるようにも、予想される。

学界のヒエラルヒーの上にいる者は、「産官学の連携」という標語を、ある意味、金科玉条のように推進すべきものと掲げてはいるものの、その内心の意識としてはあくまで、自分たち「学」がヒエラルヒーの一番上にあって、「産」「官」は、ある意味、中下層の「お客さん」、体よく言えば「貢いでもらうための金づる」である。

日本学術会議に、技術や実務やオペレーションに長けた「産」「官」推薦の実務人材が大挙してなだれ込めば、ロートルのプロパー研究者は、「素人に学界の支配を奪われる」「学界を支配するのはあくまで生っ粋=プロパーの研究者であるのに許せない」「産業界出身の研究者や官界出身の研究者は傍流・下層である。ヒエラルヒーの下層に位置する連中に何がわかるか」という脅迫観念にとりつかれるであろうと思われる。

しかし、そういったプロパーの研究者の、自らへのリスペクトを当然視して強要する傲慢な上から目線やマウンティングは、見下される側(実務にも理論にも精通し責任を負ってオペレーションしている側)からは敏感に察知される。

見下す側は、それに気付かない。

その悲喜劇の構図を、「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という。

対等な産官学による推薦権のオープン化の枠組みにすれば、こういった岩盤はあっさりと打ち砕かれることにはなるだろう。

若手研究者や女性研究者や実務家出身の研究者にとっては、ずいぶんと風通しのよいものにはなるであろう。

若手研究者にとっては、キャリアアップの絶好の機会になることは間違いない。

むしろ若手研究者や民間研究者から、自薦他薦が殺到する可能性はある。

105人しか推薦できないで困る、というような不可思議なことは起きないであろう。

今回学術会議が105人しか推薦しなかったことも内閣府の任命拒否も、ある意味、推薦権の無謬性・独占を既得権益として維持するか、オープン化をするかというつばぜり合いという構図である。

いよいよ推薦主体独占排除、オープン化といった改革提案が出てきたとき、学界のヒエラルヒーのいろんな立場にある研究者たちが、どういうリアクションをするのかは、楽しみではある。

なぜなら、若手研究者は、日本学術会議の人事の独占にもともと権益もなく、まして大半の理系に属する本来の「科学者」たちはなんの任命拒否もされていないわけで、今回の経緯にはシラケているはずだからである。

科学に理解も造詣もない、高飛車な、文系学者の鬼の霍乱に、なんで俺たちつきあわなきゃいけないんだ、あいつら科学者じゃないだろ、という若手研究者がサイレントマジョリティーであろう。

でも若手研究者は、上を見れば、自分たちの生殺与奪権をにぎっている学界・学会の上層部への「忖度」「同調圧力」に強烈なプレッシャーを絶えず受けているから、上層部が声高に叫んでるようなこととなれば、目先、無難に処世するべく、日和見を決め込むこととなる。

文系学部の若手研究者ともなるとある程度積極的に上層部に付和雷同をしないと、「学界ギョーカイ」では、カネもコネも締め上げられ、パージされ、およそ将来を奪われ、生存していけなくなりかねないような、悲しい立場にあるから、いっそうである。

そして、学界のヒエラルヒーの上にいるものが、こういった忖度と同調圧力のヒエラルヒーを維持し、推薦権オープン化の改革に抵抗し、既得権益たる「推薦権」の「独占」と「自らの推薦行為の無謬性」を固守するため、「学問の自由」というお題目が、恰好の武器として、法律学者によって、振り回されるというわけである。

西村幸三

lawfield.com

京都・烏丸三条にある法律事務所を運営。ニュース・法改正・裁判例などから法務トピックを取り上げていきます。