1.「あたらしい領解文」が巻き起こした波紋
日本の宗教界において、信徒数のランキングにおいて、1位を誇るのが、浄土真宗本願寺派(いわゆる西本願寺)である。
ちなみに2位が真宗大谷派(いわゆる東本願寺)である。
その、日本最大の宗派である西本願寺が、大揺れに揺れている。
原因は、室町時代の本願寺の中興の祖である蓮如作と伝えられて、長い間読みならわされてきた、門徒にとっての信仰告白というべき「領解文」(りょうげもん)を、現門主の名前をもって「あたらしい領解文」に置き換えようとしたことにある。
置き換えようとしたのは、(宗務)総長・(宗務)総局ら、いわゆる執行部側である。
2023(令和5)年1月16日、門主の発案した手紙(消息)として、広く意見を募ることもなく、勧学寮という学僧の権威の部署の承認をとって、発布してしまった。
これに対し、本願寺内の宗派内の学識ある多くの僧侶から、猛反発が起きた。
全国各地でも、学習会が繰り返し開催され、反対派の批難の声と、やむなくであっても受け入れようと呼びかける僧侶との間で、論争が続いている。
論争というよりは、もはや騒動・混乱に近い。
反対派は、「宗義のエッセンス、信仰告白として、『あたらしい領解文』は間違っている」という。
賛成派は、「勧学寮が承認して門主が一旦発布したものだから撤回しない。経典中に根拠はある」という。
騒動は、今もって収まるどころか、収まるきっかけも見えない。
後述するが、令和6年12月の本願寺派の宗会において、新しい領解文を発布した総長が辞任したことを受け、門主の候補者推薦で、辞任した総長と、もうひとりは勧学寮(新しい領解文を承認した)の勧学を、2名の候補者として、総長に選任するという議案に対し、議員の過半数が退席し、次に、候補者の1人を前任者を差し替えた再提案に対して、議員の7割が白票を投じるという、もはや「新しい領解文」に対する反対派が宗門の議員の過半数を超えてしまう(それでも門主が新しい領解文を撤回しない)という、なんとも頭を抱える状態に陥ってしまっている。
むしろ、各地で学習会が重ねられ、学術的な検討が発表され、YouTubeでも、かなり面白い内容が聞けるようになった。
この領解文の騒動は、浄土真宗本願寺派内の僧侶たちが、宗義のエッセンスがなんなのかを考え直す大きなきっかけになっている。
そのため、よけいに、「あたらしい領解文」の問題点が浮彫りになってきている感がある。
なぜ、こんなことが起きたのだろうか。
2.領解文=信仰告白である
浄土真宗本願寺派(いわゆる西本願寺)・または浄土真宗大谷派(いわゆる東本願寺。お東さん)においては、領解文(東本願寺ではほぼ同じ内容のものを「改悔文」と呼称する)は、キリスト教でいうところの「信仰告白」と同質のものとして、大切に扱われ、報恩講を始めとする本願寺の各種典礼の場で門徒たちによって唱えられてきた。
門徒が、本願寺の門主や僧侶に向かって、「浄土真宗の教義について、私はこう理解し、信じます」というものだからである。
唱えるのは、門徒の側である。僧侶の側からする説教ではない。
僧侶の側からする説教としては、蓮如が作製した「御文(おふみ)」がいろいろと残っていて、こちらは蓮如の真実の作である。
領解文は、蓮如作と伝わる。
が、後述するように文献学的には蓮如作とは言い難い。
しかし、蓮如の説いた教理の正確な理解として、教理と至極整合するものとして、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派の僧侶や門徒に、広く承認され、それゆえ蓮如作と伝わっている。
ところで、キリスト教の信仰告白は、プロテスタントのものとカソリックのものがあり、カソリックの方がシンプルである。
プロテスタント(16世紀の宗教改革以降)の日本基督教団であれば以下の訳である。
https://uccj.org/faith
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我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証(あかし)し、福音の真理を示し、教会の拠よるべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがなひ)となりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果みを結ばしめ、その御業みわざを成就したまふ。
教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集(つどひ)なり。教会は公(おほやけ)の礼拝を守り、福音を正しく宣のべ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主ぬし、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひとり)子ご、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 をとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体からだのよみがへり、永遠とこしへの生命いのちを信ず。アーメン。
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カソリックの場合は「信仰告白」といわず、「使徒信条」という。
こちらは、日本カトリック司教協議会の訳が以下である。使徒信条は、4世紀のニケア公会議における三位一体説確立の際から、ほぼ変わっていない。
https://www.cbcj.catholic.jp/2004/02/18/7456/
使徒信条
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。
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キリスト教徒は、この使徒信条か信仰告白を信じなければ、キリスト教徒とは言えない。
カソリック、プロテスタントに共通する内容は、
・イエスは処女マリアが聖霊により懐胎して産まれたことを信じる
・イエスの死後3日目の復活を信じる
・イエスは神の右に座り生者死者を審判することを信じる
・永遠の命を信じる
・イエスの贖罪による罪の許しを信じる
・教会を信じる
である。
これらの5つの事実を信じ、教会に帰依することは、キリスト教徒が救済されるための大前提なので、これを信じないと言うことは、キリスト教を本当の意味では信じていないのと同じである。
繰り返すが、キリスト教徒であろうとする者が、どんなに疑問を持とうとも、最終的にはこれら、イエスの死後3日目の復活・処女懐胎などの言い伝えを事実を信じるに到らなければ、信仰告白を衷心からおこなったものとはいえないし、正しいキリスト教の信徒とは言えない。
このキリスト教がキリスト教たるゆえんの教義の核心は、イエスの死後数十年を経てパウロによってほぼ確立された。
コリント人への第一の手紙第15章で、パウロは以下のように記す。
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(口語訳)
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。
もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
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教理史的にキリスト教の創設者・確立者とまで言われるパウロは、上記のように、仮にキリストの復活が事実として存在しなかったならば、自分たちの宣教も信仰も空しく、自分たちは神に背く偽証人になるとまで、強調する。
つまり、死者が復活するなどということがどんなに不合理で信じがたいと思っていても、それを信じることが、キリスト教の信徒かどうかを分ける教義の中核・エッセンスなのである。
3.蓮如の御文と領解文の性格
さて、浄土真宗本願寺派・真宗大谷派に話を戻す。
本願寺派でいう「領解文」は、大谷派においては、「改悔文」と呼ぶが、両者は1箇所3文字を除いてほぼ同じものである。
領解文は、「蓮如作」と伝わっているが、文献学的には、蓮如作ではない。
蓮如作と、後世の語り伝えた者が、中興の祖である蓮如の名前を借りているのである。
蓮如の文章と確定できる文献は非常に多数残っている。代表的なものは「御文(おふみ)」である。真宗大谷派では「ごぶん」という。
蓮如の御文の代表作は、「末代無智の~」といったもの数通で、浄土真宗本願寺派・真宗大谷派の在家が日常読む「在家勤行集」にも収録され、各種法要や月参りでも法要の最後に僧侶によって読まれるので、本願寺派・真宗大谷派の門徒であれば、耳にしたことがない者はおよそいないだろう。
御文と違い、「領解文」は、その蓮如の御文に表される教義のエッセンスを、門徒の側から「私はこう理解しています」と信仰告白している文章である。
一方、御文は、蓮如が、遠方の在家にも本願寺の教義のエッセンスはこれであると正確に伝わるように突き詰めて作った「手紙」であり、パウロの手紙とも機能を同じくしているし、性質も同じものとして比肩されるべきものである。
ただし、パウロの手紙のほうは、蓮如の御文より、はるかに冗長であり、論文に近い。
そして、パウロの何通もの手紙を教学的に突き詰めていくことによって、アウグスティヌスにせよ、ルターにせよ、歴代の教父らにせよ、カソリック信仰やプロテスタント信仰の核心を構築していったのである。
この蓮如の御文は、大無量寿経・観無量寿経の教義を、法然が、万人救済のために本当に最適な部分だけを選択(せんじゃく)し、親鸞が広汎に分析し深めたものを、さらに蓮如が末寺の僧侶でも教説からブレることなく説教できるようにと、究極にシンプルに教義のエッセンスとして要約したものである。
だから、蓮如作と間違い無い「御文」を聴き、自ら読んで肚に落とすことが大事なのであって、別段、領解文を唱える必要は無い、ようにも思える。
しかし、蓮如が、門徒に、自分の信仰理解を、蓮如の前で唱えるように奨励したのである。
後述するように、それが本願寺流の信仰告白として奨励され、やがて領解文として確立していくのである。
領解文では、門徒が、
(1)雑行を捨てて念仏に専念すること
(2)念仏を一念するだけで阿弥陀仏が救済してくれることを信じること
(3)歴代の善知識(高僧)に感謝し信じること
を表明する。
これは、キリスト教の信仰告白が、「キリストの死によって罪が許される」「キリストは死後3日で復活して神の右にいる」「教会を信じる」と表明することと、至極、パラレルである。
領解文は、蓮如以降の誰かが作ったものだとしても、蓮如が当時語ったであろうことばのエッセンスであるとして何ら遜色が無いもの、と、東西両本願寺において僧侶や門徒から広く承認されてきた経緯がある。
領解文を一読すれば、蓮如の御文の内容を引用して、それを信じますと言っているのだから、門徒なら万人が納得する内容である。
第8代門主蓮如は、戦国時代に、それまで浄土真宗諸派の中でもしがない貧乏寺だった本願寺を、一代で日本最大の教団に発展させた中興の祖である。
つまり、宗勢を飛躍的に拡大したことで知られるのだが、教理史的にみても、浄土真宗の本願寺における宗義の確立においても、万人救済の教理をわかりやすくエッセンスを整理して広め、比類ない業績と功績を挙げた人物であることに、注目すべきである。
4.領解文の由来と形成過程
領解文の由来と形成過程について、たまたま最近、詳細な検討をおこない学術論文を発表した龍谷大学仏教学部(龍谷大学は本願寺派が設立した大学である)の井上見淳教授による、非常に面白いYoutubeの映像がある。
非常に面白い内容であり、必見である。
領解文の由来と、テキストが確立した過程が、明解に理解できる。
領解文とは何か?-成立背景と問題性について-/井上見淳司教
https://www.youtube.com/watch?v=CVanoAapd6o
パワーポイントのサムネイルの資料は以下にある。
https://note.com/api/v2/attachments/download/4da1519cc8cbf86122328b1a9dff1866
江戸時代の本願寺において、毎年の報恩講(阿弥陀仏・宗祖親鸞ら高僧への感謝)は、お祭りのように全国から門徒が殺到し、御影堂に1000人単位で寿司詰めになりながら法要に参加する集まりであった。
いまでも年末期の報恩講は浄土真宗の各寺院では定例の集まりであり、本山の本願寺も、末寺の門徒が団体で法要に参加し、たいへんな賑いになる。
江戸時代には、本願寺の御影堂の前で、門徒がめいめい、「私はこのように浄土真宗の教えを理解しています」と大声で宣言したのである(改悔(がいけ)・領解出言ともいう)。
この改悔は、蓮如存命のころ、戦国期の、山科本願寺の時代に由来が遡る。
蓮如は、門徒に、自分の宗義に対する理解を御影(堂)の前で口に出して語り、回心(阿弥陀仏の教えに心改めること)懺悔(さんげ。これまでの自分の誤りを語ること)するように奨励していた。
信仰告白そのものである。
蓮如は、門徒の改悔を聞いて、理解が間違っていると思えば、諭して改めていたものと思われる。
蓮如は門徒の改悔を楽しんで聞いていた。
蓮如は、門徒自身が、自分の宗旨理解を口に出して表明することが、宗旨を正しく理解することになり、また理解してしているあかしであると考えて、勧めていた。
このため、改悔の儀礼は、蓮如面前でしばしば門徒によっておこなわれ、次第に重視されていき、蓮如の没後以降も、本願寺において、門徒にとって一種の通過儀礼となったのである。
江戸時代の報恩講においては、御影堂の前で一度に50人100人がてんでバラバラめいめいが大声で改悔していたというのである(笑)。
この改悔は、はじめは当然、各自の門徒の信仰告白で、文言もばらばらだった。
それが、18世紀ころまでに次第に改悔の文言が整備されてくる。
そのなかでも、「甲州万福寺本」という写本で伝わる、蓮如作といわれる改悔の文が、僧侶の間でも内容的にもっとも浄土真宗のエッセンスを門徒が語るにふさわしいものと評価されるようになった。
多くの異本のなかから、西本願寺の門主法如のときに、碩学である慶証寺の玄智にどれが真の蓮如作であるかを問い、玄智から3種の異本の推挙を得て、本願寺派門主が、そのうち甲州万福寺本を「領解文」として採用した。
そして、門主である法如の花押、新門(次の門主予定者)文如の跋文が添えられ、「蓮如の作ったもの」として発布された。
但し、門主から発布された領解文は、甲州万福寺本から若干の付加訂正がされていた。
玄智は、付加訂正された箇所の意図がわからなかった。
そして本山に甲州万福寺本との差異について質問をした。
しかし、坊官の下間頼明(しもつまよりあき。戦国時代以来、本願寺の大谷門主家の最側近(坊官)の家柄。)に、「既に校閲されたものであるから間違いでは無い」と一喝されてしまい、撥ね付けられたという。
のちに玄智はそれについてボヤキを書き残している。
この坊官の下間頼明は、新門(法如の子で次の門主)文如の娘婿であったそうである。
つまり、碩学の、良心的な指摘に対して、当時の本願寺(宗務)総長にして大谷家の娘婿であった者が、盾になって、門主が一旦発布したものであるからと、わずかな字句修正(それが原典と異なっているというしごく真っ当な指摘)であっても、変更することを強く拒んだのである。
例えるなら、「綸言汗のごとし」、天皇の言葉は一旦出たら変更できない、という言葉を思い出させる。
門主が一度発布したものを撤回するなど、メンツとプライドの問題で、できない、ということである。
実は、この構図は、今回の「新しい領解文」の発表と、再考を求められた本願寺宗務庁の対応と、そっくりである。
「新しい領解文」を発布したときの本願寺の総長である石上智康(いわがみ ちこう)氏は、大谷光照本願寺23世門主の長女を妻としている。
つまり、23世門主の娘婿であり、大谷光真24世門主の義理の兄弟、大谷光淳25世門主の義理の叔父ということになる。
つまり、「領解文」発布の際の下間頼明と、「あたらしい領解文」発布の際の石上智康は、門主家の娘婿という立場も同じ、坊官または総長という立場も同じなのである。
「一旦門主の名前で発布した領解文を簡単に撤回できない」というメンツとプライドも、また、時代を経て、パラレルな構図だといえる。
この石上智康氏は、1936年生まれで、東京大学印度哲学科修士課程を修了した学僧である。
敦賀女子短期大学教授、浄土真宗本願寺派宗会議員、同議長、財団法人全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事、文化庁宗教法人審議会委員、浄土真宗本願寺派総長、武蔵野大学理事長、龍谷大学理事長などを歴任している。
東京大学印度哲学科といえば、仏教学に触れた者であれば、中村元(はじめ)教授を思い浮かべない者は、いないだろう。
原始仏教・部派仏教・サンスクリット語仏典の研究と仏典の現代語訳における膨大な量と高い質は、歴史的にも空前絶後の人物であり、菩薩とも称されたほどである。
それくらい、東京大学印度哲学科は、日本の仏教学研究の最高峰である。
日本では、明治以降、学術研究において日本の伝統仏教のほぼ全てを占めているはずの大乗仏教・大乗仏典がやや軽んじられ、むしろ、サンスクリット語・パーリ語の仏典研究、つまりは原始仏教・部派仏教を重視した研究に、重きが置かれてきた経緯がある。
一方で、伝統仏教である各宗派の大乗経典(法華経・大無量寿経など)の研究は、各宗派の設立した私立大学の仏教学部において、地道に追究されてきた経緯がある。
なお、長年のトレンドとして原始仏教・部派仏教の研究に押されていた大乗仏教研究であったが、実は、この30~40年くらいの間に、大乗仏典の研究はルネッサンスのように復活し、飛躍的に進み、花開いている感がある。
ところで、伝統仏教の代表と言うべき、浄土教系の宗派(浄土宗や浄土真宗。ほかに時宗もある)の教理研究はどうだったであろうか。
法然・親鸞・蓮如によって「選択」されて広められてきた浄土経典のエッセンスは、万人救済の教理としては見事なものである。
それゆえに爆発的に拡がり、定着した。
が、いかんせん、浄土教の教義というのは、仏教研究として採り上げるには、シンプルで明解すぎるのである。
つまり、仏教研究としては、底が浅いということになってしまいがちである(実際には大無量寿経だけ読んでも広汎な経典であり、およそ浅いとはいえないが)。
さらに、法然・親鸞・蓮如の教説というのは、どこまでいっても、経典という1次文献ではなく、経典に対する論書、つまり、2次文献、3次文献にすぎない。
学術的に、歴史学・文献学としては、1次文献である、大無量寿経、そのサンスクリット語訳版、また先行経典の大阿弥陀経・平等覚経などを研究するほうが、まだしも、現代の仏教学研究としては成り立ちやすいのであって、研究者としては採り上げるに有意義なのである。
つまり、法然・親鸞・蓮如の教説や文献は、現代仏教学の泰斗らがスノッブな感覚でいえば、最先端のものとして研究したいと思えるものでは必ずしもないのである。
一方で、浄土真宗の教学研究にいそしむ学者は、ほとんどが浄土真宗の寺に属する学僧である。
檀家を持つ僧侶である以上は、檀家・門徒の信仰と救済は何よりも僧侶として重視すべきものである。
つまり、本願寺に属する僧侶であれば、法然・親鸞・蓮如のエッセンスを理解し、信仰し、門徒に伝えることは、学者という以前に本来欠くべからざる宗教的使命なのである。
実は、今回の「新しい領解文」は、その法然・親鸞・蓮如の教説のエッセンスが「領解文」に比べて極めて希薄化してしまっている。
法然・親鸞・蓮如の「選択」したエッセンスの教説は、読み取ることすら難しい。
むしろ、幅広い大乗仏教の教説を広く取り込んで、仏教徒一般の行いと心がけを語っていることは、ほぼ一目瞭然である。
それが、「新しい領解文」が、相当数の本願寺派の僧侶、特に、法然・親鸞・蓮如の教説を大切に思うマジメな学僧たちから、「これは(法然・)親鸞(・蓮如)の教説の信仰告白ではない」として、猛烈な反発と拒否反応を招いている原因である。
つまり、「新しい領解文」に対する反発は、極めてマジメな教理上の対立であり、あくまで、教理上、大多数の本願寺派の僧侶が納得できるような決着を着けない限りは、まず終息しない。
門主に対する忖度や政治的な決着で終息することではない、と見られるのである。
「あたらしい領解文」に対する本願寺派の末寺の僧侶の反発は、日を追って顕在化してきている。
一旦「あたらしい領解文」を承認した勧学寮(教義研究の権威となる学僧の選りすぐり)の長であった僧侶が、退任後に「承認したのは間違いであった」と、自分の承認したことを誤りとして撤回すると、表明した。
学僧らも、末寺も、騒動の初めは門主に遠慮していたのであるが、もはや、宗議会すら、露骨に叛旗を翻す状態に到りつつある。
2024年12月20日の特別宗会では、
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(読売新聞 12月23日)
総長は、門主が指名した複数の候補者から議員が選ぶ。19日の宗会では、いずれも「唱和推進派」で、3月に混乱の中で辞任した池田氏、勧学の男性(66)の2人を指名。50人以上の議員が投票直前に退場し、議決に必要な人数を満たせなかった。中断を経て投票にこぎつけたが「当選しても辞退する」(宗会関係者)とみられていた勧学が61票(池田氏14票)を集めた。
再選挙となった20日は、池田氏と、領解文の制定時に総長だった石上智康氏(88)を指名。22票の池田氏が当選したが、白票は52票で、出席議員の7割を占めた。門主が推す候補者に投票できない議員の意思表示とみられる。
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という前代未聞の事態となった。
つまり、門主が総長として推薦する2名の候補がいずれも「あたらしい領解文」推進派だったために、宗会の過半数を超える議員が議場を退席してしまい、定足数を満たさず総長を決める議案が議決できない事態に陥ってしまったのである。
さらに、前任者池田行信氏と並んで候補に指名されていた勧学の学僧が、総長に選任されても辞退すると明言しているのに、61対14でその勧学が大部分の票を集めたが、やはり辞退。
おそらくその勧学が総長に選任されても、門主側が新しい領解文を撤回する見込みがなく、または、門主に対して新しい領解文を撤回ないし変更することを上申することも憚られるような空気・忖度の風土があり、板ばさみになりたちまち進退窮まるからだろう。
再議決に進まざるを得ず、門主は、辞退した勧学の代わりの候補者として、さらに前任者池田行信氏の前の総長の石上智康氏(新しい領解文を発布した際の総長)を、もう一人の候補に推薦。
再選挙では、白票が7割。
宗会の議員の3分の2以上が、門主による総長選挙の推薦人事に、NOを突きつけるに到ったのである。
新しい領解文に対する、宗門の幹部というべき宗会議員らの反対の趨勢は、かえって固まってしまった感がある。
(2)に続く