吉田松陰 「講孟箚記」(近藤啓吾訳)より「浩然の気」

吉田松陰 「講孟箚記」(近藤啓吾訳)より「浩然の気」

 

孟子は、浩然の気のことを、「至大至剛」、と表現した。

 

すなわち、人の気(気力)が、天地を蓋(おお)うほどに大きく広く、いかなるものによってもうち砕くことができない剛(つよ)いありさまであることを、浩然の気というのである。

 

至大、すなわち、この気が天地を蓋う広さは果てし無いものであるが、平常においてわが身にこの気を養おうとしなければ、わずかに一人の人間に対しても忸怩としてたじろぎ、これを受け容れることができない。

 

まして数十人、千万人に対しては尚更である。

 

思うにこの気は、養って大きくすれば極まり無く大きくなる。

 

ところが反対に小さくさせてしまうと、また極まり無く小さくなってしまう。

 

浩然の気とは、この気をもっとも大きくした状態をいうのである。

 

至剛とは、孟子に「富貴もその心を堕落させることができず、貧賎もその心を変えさせることはできず、威武もおびえさせることができない」というありさまをいう。

 

この気が凝縮した時、その心は火にも焼けず水にも流れず、忠臣義士がその節操を堅く守るや、頭を刎ねられても、腰は斬られても、高官・厚禄を与えても、その眼前に美女を並べても、最後までこれを換えない。

 

金鉄は剛であっても、烈火でこれを鎔(と)かすことができる。

 

玉石は堅いといっても、鉄のみで砕くことができる。

 

ただこの浩然の気のみは、これと異なり、天地のすみまで満ち、古今一貫し、これらを超えて存在するものであり、いかなるものもうち砕くことはできない。

 

この気は、平常行うことがすべて正しい道に外れないことすなわち常に正道を実践することによって養い、聖賢を学ぼうとする志を一筋に持って、つかの間もこれをいい加減にしないことによって育てるものである。

 

学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。

 

したり止めたりであっては、ついに成就することはない。

 

それゆえ、つかの間もこの志をいい加減にする事がないことを、志を持するというのである。

 

浩然の気とは、その人の行うところが道義に合致しているところから自然に生じてくるものであり、道義に合っているか省みなければそれは狂暴粗豪の態度にしかならない。

 

浩然の気は、本来天地の間に充塞(じゅうそく)しているものであって、人がそれを自分の気としているものである。

 

されば、人たるもの、私心を除き去ることができるならば、その気は至大となって、天地の気と同一体になるものである。

 

吉田松陰は、長州藩の兵学師範として若年時から英才として藩主からも尊敬されていたが、学問をやっているだけではダメで、学問を学んだ上で行動に現して天下国家を担わないといけないと唱えて、松下村塾で、多くの維新の英傑を育て、いわば明治維新を推し進めた精神的支柱となった人物である。

その吉田松陰が、米国への密航を企てた罪と、幕府転覆謀議の罪で、安政の大獄で投獄されながら、なんとその牢屋で、受刑者たちに「孟子」を講義したという講義録が、「講孟箚記」である。

孟子は、孔子の後継者と称されるが、仁・義・礼・智・信のバランスをもって世事に達観した言説が多い孔子に比べると、孟子は、「義」にやや偏り、過激で、思い込みが強く、他人への批判も激烈である。

私は、理念的で猪突猛進的な「孟子」よりも、冷静で複雑な思考を踏む「荀子」の方が、読んでいてよほど共感できる。

しかし、日本の幕末の、歴史を揺り動かしひっくり返した、狂気じみた情熱は、「孟子」の中にあった。

中国・南宋で科挙の首席合格者(科挙の首席合格者を「天祥」という)だった重臣であった文天祥は、南宋が滅んだ際、元朝のもとで学校の設立に尽力して欲しいと請われながら、毅然と、元や、元に降った者らを厳しく非難し、自らは元に降ることを決して潔しとせず、あえて節を曲げることなく南宋に殉じ、処刑されることを選んだ硬骨の士であった。

その文天祥が処刑寸前に詠んだ詩が「正気の歌」であり、そこで文天祥が拠り所として引用したのが、「孟子」が強調した「浩然の気」であった。

浅見絅斎は、中国歴代の硬骨の士(諸葛孔明、顔真卿ら8名)を紹介する「靖献遺言」を記したが、文天祥の「正気の歌」のくだりはその白眉であり、多くの幕末の志士は「靖献遺言」を心の拠り所として、倒幕運動に身を投じた。

中でも長州の志士は、十人中、八、九人までが、倒幕までの動乱(禁門の変、第一次長州征伐、長州内部での粛清と高杉晋作による逆クーデター、第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争など)の中で、命を散らした。

孟子から朱子学に、浅見絅斎に、松陰に、さらに松陰から長州の志士たちにと、「狂気」が伝播して、巨大なエネルギーの奔流が生まれ、倒幕の大逆転劇と、明治維新がなったのである。

それは、孟子、浅見絅斎の「靖献遺言」そして吉田松陰の「講孟箚記」を、実際に読んでいけば、得心する。

吉田松陰は、理論と理念の人でありながら、それを行動に直結させ、周囲に伝播させ、処刑死して後、国を動かした人であったのである。

西村幸三

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