マザー・テレサ、フローレンス・ナイチンゲール、マリー・キュリーの名言を集めてみた
マザー・テレサ
「互いに微笑むのです。
妻に微笑みなさい。
夫に微笑みなさい。
子どもたちに微笑みなさい。
互いに微笑みなさい。
相手が誰であろうとです。
それが、お互いへの愛の心を育てることになるのです。」
——————–
「あなたを妨げるものは何もありません。
おそれるものもありません。
すべてのものは過ぎゆきます。神を除いて。」
——————–
「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなくし善を行い続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。
気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。」
マザー・テレサが、己れの労苦をも世間からの蔑視をも省みないで使命感をもって他者へ献身する姿勢は、半ば狂気、半ばはとんでもない開き直りと言うべきものであった。
さらに、政府の要人や実業家らにも臆念することなく正面から乗り込んで、いつの間にかマザーの事業の支援者とし大胆に周囲を巻き込んでいくバイタリティは、まことに脱帽せざるをえない。
ナイチンゲール 長島伸一著「ナイチンゲール」より
クリミア戦争での看護活動がイギリス本国で「クリミアの天使」「ランプを持つレディ」などと熱狂的に賞賛・報道されていた中でナイチンゲールが述べた言葉
「かねてから心を痛めてきたことですが、私のこの実験事業に寄せられたはなばなしい声望を聞くにおよび、私はいっそう心を痛めています。
この仕事にたいする並はずれた喝采がわれわれの中によびおこした虚栄心と軽挙妄動とは、この仕事にぬぐいがたい汚点を残し、おそらくはイギリスではじまった事業のなかでもっとも将来性あるこの事業に害毒を流し込みました。
困難と辛苦と苦闘と無名の中で、この仕事に着手したわれわれの当初の一行のほうが、ほかの誰にもましてよい仕事をしてきました。
・・・少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです」
フローレンス・ナイチンゲールは歴史上の女性でもっとも尊敬されるべき人物のひとりと思う。
ナイチンゲールが医療における看護・衛生の改善に取り組み始めたころ、看護婦という職業はさげすみの対象でしかなく、フローレンス自身、家族からも看護婦となることを猛反対されていた。
クリミア戦争終結時、イギリス中がナイチンゲールの活躍に熱狂してフィーバー状態になっていた。
彼女の帰国を出迎えようとしていたのを、フローレンスはあえて凱旋騒ぎを避け、帰国する日を本国にも告げずにこっそり帰国した。
以後、人に接することも極力控え、イギリス政府に看護・衛生の改善への厳しい提言を続けて、生涯を過ごした。
マリー・キュリー
「人生においては何事も恐れるべきではありません。何事もひたすら理解するよう努めるべきなのです」
——————–
「生きることは誰にとっても容易ではありません。けれども、それがどうしたというのでしょう。人はみな、強い忍耐力と自信を持たなければなりません。私たちは、自分には何らかの才能があり、それを発揮することは、一人ひとりが負っている義務であると信じなければなりません」
マリー・キュリーは、女性の進学などありえないといった時代のポーランドに生まれ育ち、家庭教師の職で、屋根裏部屋での貧乏生活を繋ぎながら、奨学金でパリ大学を卒業した。
その後、研究者として業績を積んで次第に名声を高め、夫ピエールとの放射線研究、ポロニウムやラジウムの発見・研究でノーベル賞を2度受賞するに到った。
マリーは、夫ピエールを早くに失う中で、娘イレーヌを育て上げた母でもあった。
マリー・キュリーの人生は、研究者の人生というには、あまりにも波瀾万丈で、苦難と激動の連続であった。
そんな中で、マリー・キュリーは安定した精神力と不屈の努力の積み重ねで、研究者としてそびえたつ業績を次々と達成していった。
マリー・キュリーの言葉は、重い説得力をもって万人に迫ってくる。