論理国語と学校教育

2020年9月27日の京都新聞の一面「点眼」で、上野千鶴子東京大学名誉教授が、「論理国語が必要な理由」という題で寄稿している。

 

おもしろいので抜粋して引用する。

 

高校国語が「文学国語」と「論理国語」とに再編成されるという。反対する人が多いというが、いまさらにようにわざわざ「論理国語」と言わなければならないのは、これまでの国語教育がいかに文学的で、論理的でなかったかの証しだろう。

 

反対派は、「論理国語」では、法律の条文やマニュアルを読ませるのか、と揶揄する。それだって、社会生活を送るうえでは重要なスキルだ。契約書を読めないばかりに大きな損失をこうむる人もいる。放っておいても身につく力ではない。

 

かねてわたしは、文学好きの国語の教師が、情緒的な文章を読ませて「主人公はこの時どう感じたか」を尋ねたり、作文教育で「感じたことを思ったままに書きなさい」と指導してきたことを、困ったことだと思ってきた。こういう学生を大学で受け取るから、「考えたことを、論理的に述べなさい」という文章記教育から始めなければならなくなるのだ。

 

とする。

 

続いて、上野千鶴子氏は、某紙の読者投稿欄の53歳会社員の投稿が文学教育必要と説くのを批判する。その投稿では

 

「社交辞令の多い日本では、言葉を額面どおりに解釈していたのでは、ことがうまく運ばないことも多い。利害や思惑が複雑に絡み合う現実社会では、行間を読み、相手の心情を察し、共感する能力が最も重要」

 

といっているとのことである。

 

上野千鶴子氏は、これを批判して、

 

この会社員男性が、長い職業生活で学んできたのは、こういう集団の暗黙知なのだろう。それに通暁した結果、彼の情報解読能力は特定の集団に特化したカスタムメイドのものになり、他の集団には適用できないものになっているかもしれない。

 

(中略)

 

「察し」と「忖度」で成り立つ、日本的「会社員」のコミュニケーション術は成り立たなくなるのである。

 

(中略)

 

こういう「共感力」を強調する会社員男性が、おそらく妻には少しも「共感力」を発揮しないだろうことも想像に難くない。こういう男性は、妻には自分に対する「察し」と「忖度」を求めるのだ。夫婦関係は最初の異文化間コミュニケーション、「額面どおり」口に出して言わないことは決して相手に伝わらないことを、肝に銘じるべきだろう。

 

と結ぶ。

 

上野千鶴子節、炸裂である。

 

 

さて、上野千鶴子節については、普段、私は、60:40くらいで賛成かつ反対というところである。

 

論理国語については、私は8割くらいは賛成、2割くらいは違うかな、と思う。

 

ウェットな人間関係では「暗黙知」はかなり必要なので(欧米といった外国のビジネスの世界でもそうだと思う)、それが上野千鶴子節が違うかなと思う2割である。

 

我が身を振り返るに、中学受験や大学受験で、「小説」が出題されることは、私は、小学生のときから疑問視していて、「非論理的」「くだらない」「こんなもので正しい能力は測れない」と思っていた。

 

そんなことだから、小説問題はおよそ得意ではなかった。

 

 

小説問題は「ひたすら出題者の意図を忖度する」のが正解への近道であることはさすがに理解していたので、妥協して解答はしていたが、「小説を書いた作者ならともかく出題者の解釈がそんなに偉いのか?」「自分はティーチャーズペットではない」という矜恃が邪魔をしていて、そういった解答作業におよそ意義を見いだせず、気持ちが入らず、解答のための解答作業となって、学びの喜びを見いだせずに苦労した。

 

小学校の国語の授業に到っては、本当にヒマというか、苦痛だった。

 

5分ほどで読んで自分の中で鑑賞が終わる「物語」「詩」について、主人公や作者の考えを、延々と、何時間も掛けて、教師が解説し、考えさせられるのである。

 

「物語の社会的背景」「作者の制作意図」は、教師がもったいぶって明かさず、授業何コマ、何時間も掛けながら、種明かしのように、開陳する。

 

そもそも、小学生にしても中高生にしても、社会的知識が乏しい。

 

まず、さっさと社会的知識などの背景を教えればいいのに、時間の無駄だよ、知らないものに解釈させても意味ないでしょうに、と、いつも思っていた。

 

そもそも配られた教科書が、小説の抜粋や断片の寄せ集めでしかなく、1日2日で1冊読み終われるボリュームだった。

 

 

教師の話を聞き流す悪癖が私についてしまったのも、多分に小学校時代の「文学国語」の悪影響だったろう、と多少は思うところである。

 

しかしながら、学生時代の自分を振り返ってみれば、論理的思考力や理解力には長けていても、周囲への協調性や、「共感力」については結構欠いていた、可愛げの無いこどもだったな、とも思う。「忖度」は苦手だったと思う。

 

周囲との協調性という面では、若いころにずいぶん失敗もしてきて、ようやく、社会人になったころに、周囲との折り合いの付け方を一応会得したかな、というていたらくである。

 

ところで、ビジネスの世界で成功するには、まずもって業務能力に直結する論理的思考力や理解力が大事なことは言うまでも無い。

 

これが欠けているビジネスマンが成功するはずはない。

 

一時的に成功してもすぐに失敗して破綻する。

 

一方で、「協調性」「共感力」がないようなビジネスマンは、顧客や上司同僚などスタッフとのチームワークをうまく組めないわけだから、飛び抜けた能力があれば評価はされても、いずれ敬遠され、また人のつながりも拡がらず、結局は、成功しない。

 

論理的思考力や理解力を養うには、抽象的な概念を使った文章を大量に読みこなし深く考えることを積み重ねるしかない。

 

論理国語はそのベースになる。

 

しかし一方で、「文学教育」の題材たる、「小説」「詩」などが、「協調性」「共感力」を養うかと言えば、決してそうではない。

 

中学受験に出題される文学国語は、「成長物語」といった、「大人の目から見てほほ笑ましいこども」が描かれ、解答者の側は、ある意味ワンパターンでお仕着せな道徳性に沿った回答を要求されがちである。

 

逆に、大学受験に出題される現代文の文学国語は、「壊れた家族関係や人間関係」「人間性がきしんだり壊れた人の気持ち」といった、あまり健全でもなく社会性も欠けた「純文学」の題材が選ばれがちである。

 

そういった、中学受験や大学受験の国語教育が、「協調性」「共感力」を養っているようには思われない。

 

また、国立大学や難関大学に進学するような学生ほど、「文学国語」の解答力には長けているはずだが、むしろ、一般的には、難関大学の学生ほど、情緒的な協調性や共感力には欠如した学生が多いように思われる。

 

難関大学の学生ほど論理的思考力や理解力は優れているのは当然であるが、実際に社会に出れば、「空気読めない君」になることが多い。

 

つまり、社会性が身についていないのは、「文学国語」が解けないからではない。

 

社会性や協調性、共感力が乏しいのは、その人が、人間関係で失敗したり、叩かれたりして挫折した経験が不足していたり、意識してスキルを学ぼうとしてこなかったからだろうと思われる。

 

むしろ、「協調性」「共感力」は、学生時代も、社会人になってからも、意識的・計画的にトレーニングしなければ身につかない。

 

そのトレーニングは、人生論の書や実用書で修養して、それなりに、身につけることもできる。

 

修養の書としては東洋・西洋の古典や宗教書がなんといってもお勧めである。

 

私は学生時代も社会人になってからも東洋・西洋の古典思想や宗教書、ビジネス書を大量に読んできたが、それも、社会性のスキルを高めるためであり、そんなスキルは国語教育の題材ではおよそ身につくはずがない(そういった題材はむしろ国語教育から排除されている)と感じていた。

 

あるいは、社会性や協調性、共感力を身につける場面は、学生時代の部活動・サークル活動であり、社会に出てからは公私にわたる他者との交際、たとえば結婚生活や育児や各種団体への参加活動だろうと思われる。

 

そもそも「文学国語」に長け、「文学国語」を重んじる大学教授や学校の教師が、「協調性」「共感力」にあふれているのであろうか?

 

むしろ逆である。

 

「先生と言われるほどのバカでなし」という言葉がある。

 

大学教授、学校の教師、医師、サムライ業などの、「先生」と呼ばれる人は、社会的にはバカが多い、偉そうな割に世間知らずの常識なし、という例えである。

 

見渡して、けだし真実であると思う(笑)。

 

先生ほど、日々三省するしかないレベルであると思う(笑)。

 

思うに、「文学」「小説」というのは、「絵画」「工芸」「音楽」「演劇」といった、芸術・文化の分野に属していると思う。

 

ギリシャ・ローマ時代、ヨーロッパ中世から近世近代、明治時代以降の日本にしても、小説というのは、人びとの心を潤し、豊かにするが、あくまで、芸術の範疇にあるはずである。

 

「小説というのは女子供の読むもの」「小説に耽溺すれば家を滅ぼす」とある意味不当に蔑視されてきたのも、小説は芸術文化の範疇で、社会性にある意味相反するものである、と考えられてきたからである。

 

しかしながら、現代日本語の成立事情にはやや特殊性があることに注意が必要である。

 

明治時代以降も、第二次世界大戦までは、公用文=文語は、「漢字+カタカナ」いわゆる漢文書き下し調だった。

 

もちろん法律も、戦前の法律は全て漢字+カタカナであり、なんと、刑法の口語化は、1995年、民法の現代語化は2004年、商法の現代語化は2005年であった。

 

ある意味、論理的・抽象的に明晰な文章を書くのには、漢字書き下し調のほうが適していると戦前世代が考えてきたからであり、小説で用いられていた現代文調が文章語として成熟し滲透し受け入れられるのには戦後になっても長い時間がかかっているのである。

 

一方で、明治以来、坪内逍遙や夏目漱石にはじまって、小説家たちが、「口語」によって小説を書く運動を推進したことによって、戦前の純文学作品群において、「現代日本語の文章体」が形成されていった。

 

そして、戦後になって、忠臣愛国に繋がる皇民教育の排除というのが戦後教育の大きな課題となったことから、「漢字+カタカナ」の文語調は、学校の教科書から一斉に追放されることとなった。

 

その結果、教科書に載せるべき、格調高く、硬質な日本語の「文章語」=「文語」の題材に事欠くことになった。

 

その際の戦後の国語教育における格好の題材が、「純文学」だったのである。

 

ところで、戦前の、帝国大学入試問題は、国会図書館のアーカイブで読める。

 

紫式部日記、源氏物語、漢籍、せいぜい森鴎外や夏目漱石の評論、などであり、現代文調の小説を題材にした「気持ちを答えよ」問題などはおよそ出題されていない。

 

「小説中の主人公の気持ちを答えよ」なるものが教科書や入試問題の題材として幅を利かせるようになったのは、結局のところ、日本の戦後教育の初期の特殊事情によるものであろうと思われる。

 

この、「文学部出の教師の主導教育」を、大学や文部科学省が、前例踏襲主義で、戦後三四半世紀にわたって惰性のごとく変えられないままきただけに過ぎないものと思われる。

 

小説家や、小説を研究する文学部の学者や、文学好きの学校教師たちが、社会的な「協調性」「共感力」に長けているなどと思っている者など、世間のどこにもいないだろう。

 

むしろ、疑問も抱かずに、「文学」を、「芸術」分野ならともかく、「国語」教育の中核とすることや、情緒的な「協調性」「共感力」教育に使うといった目的外使用を、所与のものとし続けていることが、教育現場の同調圧力の温床として反省されるべきなのだろうと思われる。

西村幸三

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京都・烏丸三条にある法律事務所を運営。ニュース・法改正・裁判例などから法務トピックを取り上げていきます。