ジブリ映画「君たちはどう生きるか」 感想(3)

ジブリ映画「君たちはどう生きるか」 感想(1)
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ジブリ映画「君たちはどう生きるか」 感想(2)

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から続く。

 

ジブリ映画「君たちはどう生きるか」の感想を、(1) (2)で書いた。

 

ネタバレになるので、できれば映画を見てから読んでいただきたい。

 

産屋について

産屋とは、母屋とは別棟で出産をし、出産後暫く生活をする建物を言う。出産時、産後の肥立ちで母子が死ぬことが多かったため、死や血と穢れを避けるため、産屋を別棟にした。

 

外部の病気を持ち込ませず、妊婦の安全を確保するためでもあった。

 

産屋の夏子が眞人を強く拒絶する。これは、産屋に立ち入るタブーを犯したので出ろという意味と、現世で夏子の好意を眞人が悪意で拒絶したことへの怒りからである。

 

産屋の紙垂に眞人は襲われ、ヒミが炎で祓おうとするが、逆に雷のようなもので眞人とヒミは気絶させられる。

 

インコが眞人とヒミをそれぞれ捕らえる。産屋に立ち入ることはタブーであるとインコが怒る。眞人は食べられることになったが、アオサギのおかげでなんとか逃げ出す。ヒミはガラスケースに入れられインコ大王の駆け引きのために大叔父のところに連れて行かれる。

 

産屋はなぜタブーなのか

産屋に立ち入ることが最上級のタブーになるというのは、必ずしも必然的な話では無いと思われる。

 

異世界で特徴的なのは、この産屋の石室が、異世界の最初に眞人が降り立った「墓の石室」でもあることである。

 

つまり、他の世界から死者がたどり着いて異世界の生き物として誕生する場という点にある。

 

そして出産という行為が、死と隣り合わせでもあった時代環境である。

 

「生」と「死」が重なり合って交錯し、「神聖さ」と「穢れ」の両方の属性を兼ね備えた厳粛な場、として、関係のないものが立ち入ることがタブーとされているのである。

 

大叔父 ファンタジー世界の造物主

大叔父は異世界の造物主のように白い広い空間に一人座っている。

 

映画「マトリックス リローデッド」(2作目)の造物主「アーキテクト」のようである。

 

以下で大叔父が語る論理も、マトリックスのアーキテクトの論理によく似ている。

 

大叔父は眞人に、自分のあとを継いで、悪意の無い13個の積木を積んできた、改めて眞人の考えで13個の積木を3日に1つづつ積み、14個目の積み木を足して欲しいと言う。

 

異世界は、ファンタジーの世界である。

 

大叔父は、ファンタジーの世界をいろいろな形の要素で構築してきたことを語っているのである。

 

そして、ファンタジー世界を構築する石は、悪意の無いもので無ければならない、という理想があるのである。

 

にもかかわらず、石には悪意が混じり込んでしまいがちでもある。

 

私は、映画の前半くらいから、「ファンタジー世界と、主人公の悪意の有無」というテーマの提示に対して、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」のイメージがずっと頭をつきまとっていたが、大叔父のこのセリフで答え合わせできたような印象を受けた。

 

「はてしない物語」では、主人公(バスチアン)が、崩壊していくファンタジーの世界(ファンタジーエン)を維持するために後継者=救世主になってほしいと誘導されて、迷いながらついにはファンタジーエンを再興するというのが前半である。

 

後半は、主人公はたちまち驕りたかぶるようになり、王となり、主人公の悪意によってどんどん世界は悪化し崩壊していき、主人公は現実世界の記憶も次第になくしていくが・・・という展開をたどる。

 

「シン・ヱヴァンゲリヲン新劇場版:||」のラストの世界観も、ほぼパラレルだといえる。

 

エンディングで世界は相転移を起こし、登場人物たちは、使徒たちとの戦いもヱヴァンゲリヲンのことも忘れてしまっている。

 

ファンタジーの世界に没入して楽しむことは成長にも生きることにも必要なことであるが、そこに閉じこもるのでなく、現実世界に戻って人と関わり、回りに貢献し成果を出すことで人は健全に生きていける、という価値観と世界観がそこにはある。

 

この価値観と世界観は、少年少女向けの成長物語の、不滅の王道パターンである。

 

また、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」のテーマでもある。

 

ここで、ほかの解説でよく言われるのは、スタジオジブリの宮崎駿監督または脚本作品が全部で13個だから、というものである。

 

確かに、そうなのだろうと、容易にオマージュとしての説明がつく点である。

 

なお、あまり指摘されていないが、1986年「天空の城ラピュタ」から2023年「君たちはどう生きるか」まで36~7年であるから、3年に1作ペースと考えれば、3日に一度積み木を積むという数字は、ジブリの最初から終わりまでの、つまりいろんな世界を構築するために要した年数を暗示しているともいえる。

 

13個の積み木には悪意が無い、として、それが宮崎駿の13の作品のオマージュだとすれば、宮崎駿は、現世との縁を切ってファンタジーの世界の制作、つまり大叔父のように異世界に籠もり、悪意の無い子供の世界を描いた作品を13本作ってきたということになる。

 

アオサギは現世と異世界を繋ぐプロデューサー鈴木敏夫ということになる。

 

アオサギは嘘つきなのか、友達なのか、という前述の考察は、そのまま鈴木敏夫が宮崎駿にとってどういう関係性にあったのかのオマージュになっているということになる。

 

眞人は大叔父に、自分には悪意があるから、積み木は積めない、現世に夏子さんを連れて帰るという。

 

大叔父は、それは違う、悪意がある者だから、この(悪意の無い)積み木を積む者にふさわしいという。

 

つまり、描かれる子供の世界は悪意の無い子供の世界だが、描く者には悪意がないと、悪意の無い子供の世界は描けない、と言っているのである。

 

これは、宮崎駿が、自分という人間の創作活動が、幼少期や子供のころにも悪意を持っていたし、ジブリ映画制作をやっている過程でも悪意を備えながら制作をしていた、むしろ悪意の無い者には宮崎駿の作ってきた映画のような子供向け作品は作れない、と、吐露しているということができる。

 

石を積む者が意図しても、または意図せずとも、石に悪意が混じることはある。

 

そして、自分の悪意を自覚的に受け止め、受け入れられ、制御できるような人間こそが、はじめて、悪意が混じらない石積みを築くこともできるのである。

 

インコ大王による世界の崩壊

あとをつけてきたインコ大王は、大叔父が眞人を後継者に指名して、世界の造物主の地位を眞人に譲ろうとするのを、インコの自分たちに対する裏切りだと罵る。

 

これは、現代の人間が、以前は神を造物主と崇めていたのに、すっかり取って変わって、世界の支配者の神の後継者に成り代わることを当然のように考えていることへの警告のオマージュである。

 

さらにインコ大王は13個の積み木をメチャメチャに積むが、積むことができない。

 

インコ大王にも悪意はあるから(笑)、一見積む資格はありそうであるが、インコは、異世界の生き物の中で中途半端に高い知能を誇って野蛮に食物連鎖の上位に君臨して世界を支配しようとしており、世界の摂理を十分に理解せず、世界における強者と弱者の相対化が果たせていないから、バランスが悪く、積み木を積むことができないのである。

 

あげくにインコ大王は、積み木を積めないことに憤り、刀で積み木を一刀両断する。

 

そうすると、大叔父のいる塔の空中に浮遊していた、黒い巨石の塊が、バラバラに分解し、大叔父や周囲に嵐のように吹き散り、世界の崩壊が始まる。

 

積み木が一刀両断されたように、海も割れる。

 

大叔父は、この空中浮遊する黒い巨石は、この世界を構築する力の源泉であるといっていた。

 

この浮遊する黒い巨石は、大叔父が悪意の無い13個の積み木を抽出する上で生まれた、副産物、エネルギーの歪みである。端的には悪意のエネルギー、悪意ある石の累積であろう。

 

つまり、悪意のある石が延々と累積して巨大な巨石となって、空中を浮遊し、そのエネルギーの歪みのおかげで、小さい13個の悪意の無い積み木(子供の世界を描いた13作品)ができた、ということであろう。

 

しかし、その悪意の無い積み木の世界は、まだまだ不安定で、14個目の積み木、さらに後継者が慎重に積み木を積んでいかないと容易に崩壊するようなものであった。

 

宮崎駿の13作品が、実はばらばらでその場その場の思いつきで作られたもので、一生涯の作品世界としてまとまりなんかないのだ、悪意の無い子供の世界を書きたかっただけだ、ということでもあろう。

 

大叔父が塔の中に閉じこもって異世界の造物主として活動してきた結末は、累積する悪意の巨石が解放されて、小さな悪意の無い積み木から作り上げてきた世界は、エントロピーが一挙に増大し、崩壊するというものであった。

 

悪意の無いものだけを抽出しても、サグ(鉱物の抽出後のクズ)のように積み上がる悪意を、受け入れて、消化するのでなければ、悪意を克服したことにはならないのである。

 

そもそも、異世界の石には、異分子である眞人への悪意があって、触ってはいけないと眞人は注意されている。

 

序盤の学校でも眞人はあまりに異分子であったために、たちまち級友たちのいじめにあった。

 

実は悪意の有無というのも相対的なものであり、異質であることで理解と受容がついていかずに、衝突が生じ、それがお互いにとって悪意と評価されるという構造なのである。

 

エヴァンゲリオンでも、人間とエヴァ、人間同士の相互理解の齟齬が敵意・悪意となるというのがテーマになっていた。

 

眞人は、自分の悪意を自覚し、それもまた自分の一つの側面であると精神的に受容し、大叔父にも躊躇うこと無く吐露し、自らの悪意を受容し、折り合いを付け、他人にぶつけないように制御することができるように、成長しつつある。

 

眞人は、異世界の造物主として閉じこもる選択肢でなく、現実世界で人と関わって人に貢献することに存在意義を見いだす道を選ぶ。

 

ヒミ(久子)も、病院の火事で死ぬことが分かっていても、自分は眞人のような子供を産みたいから、と言って、自分の子供時代の扉から出て帰っていく。

 

大叔父は宮崎駿の自己投影であることはほぼ衆目の一致するところであるが、大叔父のあとを継がないという眞人もまた、宮崎駿が、自分を投影している存在であることも、また、容易に想像がつく。

 

なお、鈴木敏夫は、この映画に、高畑勲としか思えない人物が登場する、と言っているようであり、そうだとすれば大叔父以外にはないだろう。

 

しかし、大叔父=高畑勲、眞人=宮崎駿、という構図もまた違和感があり、大叔父=高畑勲と宮崎駿の重なり合ったもの、眞人=宮崎駿と宮崎駿の後進のアニメーターの重なり合ったもの、という構図のほうが、自然なようにも思われる。

 

宮崎駿の後継としてアニメ制作をする者は、宮崎駿の血族か否かでもなく、13の宮崎駿の作品を継承するかといった呪縛を引き継ぐべきでもない、後に続くものは、自力で独立してアニメ制作をそれぞれがすればいいのだ、という割り切りを語っているともいえる。

 

スタジオジブリの後継問題、後継者の血族の能力レベルの問題で、宮崎駿が長年頭を悩まし、あまり良い結果が出ていないことは、これまた、衆目の一致するところである。

 

宮崎駿は、13の積み木の積み直しなんてせずに、宮崎駿の世界を終わりにしたらいいんだ、という、結論を出した、ともいえる。

 

現世に戻ってきた眞人は、本来、異世界のことを忘れていなければならないが覚えている。ただ、石を持っていてもそのうち忘れるという。子供の世界を描くファンタジーによくある設定である。

 

ファンタジーの世界に過ごすことは、子供の成長と心の安らぎにとって必要なことであるというのが、少年少女向け小説、特にファンタジー小説のお約束である。

 

一方で、最後はファンタジーの世界から出てきて、現実世界に帰って行くことも、良心的なファンタジー小説では、お約束となっている。

 

そして、子供は、成長につれて、ファンタジーの世界のことは、いつの間にか忘れて、青年となり、大人になり、年をとっていくのである。

 

眞人はラストシーンでポケットの中の石を探っていたが、眞人は異世界のことをまだ覚えているのだろうか、という余韻を残して、「君たちはどう生きるか」は終幕する。

 

これもエヴァンゲリオンのラストシーンに通じる。

 

「エヴァンゲリオン」はテレビ版シリーズ、旧劇場版シリーズ、新劇場版シリーズと、世界が3周ループしたにもかかわらず、テレビ版、旧劇場版では、庵野秀明監督が大団円を避け、とんでもなく破綻したエンディングとなってしまっていたが、新劇場版の最終作で、ようやく、少年少女向けファンタジーのお約束に沿ったエンディングを迎えた。

 

そんなお約束どおりのエンディングはつまらない、というこだわりもまた、一部のとがったアニメクリエイターや視聴者にも存在する。

 

エヴァンゲリオンのテレビ版シリーズや旧劇場版シリーズのエンディングも、お約束通りの大団円を外そうと意識したがゆえにああなった、ともいえる。

 

「君たちはどう生きるか」を、駄作だ、と評価する意見も非常に多いことは、これまた当然だろうと思う。

 

なぜなら、「風立ちぬ」はさておき、それまでの宮崎駿の作品は、そういったお約束どおりの物語構造をどこかで拒否し、ひねりながら、それでも保護者や子どもたちに受け入れられるエンターテインメントとして成立する外観のバランスを追求してきた歴史がある。

 

ジブリの過去の各作品がわかりやすかったか?といえば、とてもそうはいえない。

 

各作品、あちこちに、説明されない謎の設定、裏設定を残したままである。

 

キャラクターのかわいさと映像美で、子供も保護者もまやかされて納得しているのではないかと思う。

 

今回の「君たちはどう生きるか」は、てらうこともなく、少年少女向けファンタジーのお約束で書かれている。

 

私は、序盤を見ながら、中学受験入試の国語の問題を解かされているようだと感じた、と、最初に述べた。

 

メタファーは多いが、セリフや映像から一応解釈は可能なように説明されているのだけれども、理解するには、ある程度の背景知識やお約束のリテラシーを必要とし、かつ導き出される答えにはそれなりの幅、多義性があって、正解が分かれることも普通に起きる。

 

たとえば、原文の作者が問題を解いても、出題者の答えと一致しないことが普通に起きるのが、入試の国語問題である(笑)。

 

そして、あえてその謎かけをして楽しんでいるのが、今回の出題者:宮崎駿なのである。

 

まあ、それが宮崎駿の自己満足だ、スノッブだ、駄作だと批判されるのもまた、当然かも知れない。

 

ところで、私は、国語の「小説問題」の「登場人物の気持ちを答えよ」という問題がなかなかにニガテだった。

 

小説問題のリテラシーとお約束の理解は、大学受験にギリギリ間に合ったという感じであった。

 

自分が登場人物の気持ちを合理的に「こうだ」と分析しても、間違うのである。

 

そして答えを見ても解説されても、理解できない(笑)。

 

入試問題で出題されるような小説、特に少年少女向けの小説においては、理不尽な家族関係(友人・教師ほか)、理不尽でネガティブな感情(悪意)が、お約束のように、渦巻いている。

 

そこでは主人公にも一定の悪意があるのである。それが物語の最後では克服されるのであるが、物語中から抜粋された問題文の段階では、主人公はまだ克服していなくて、ある意味、黒歴史の中にいるのである。

 

そのお約束が読み取れない読者には、解けない。

 

そういう国語問題がうまく解けなかった当時の子供の自分に何が欠落していたのかは当時も今もなんとなくは分かっていて、歴史関係や社会・経済関係、科学関係の解説書やドキュメンタリーを好み、ファンタジー小説とか私小説といったものは「嘘くさい」「自分はこんな行動はとらない」「自分ならそうは考えない」「そんな答えはくだらない。小説の作者がそんな陳腐なことを書くのか」「結局作り物だから」「役に立たない」と切り捨て、殆ど読まなかったことが原因しているのだろうと思う。

 

そんな自分がよく宮崎駿の作品によく全作品つきあってきたものだなとは思った。

 

ただ、私の読解も、世間の人が解説しているものとかなり齟齬があって、たぶん私のほうがかなり間違っているんだろうな、と、やはり思う(笑)。

西村幸三

lawfield.com

京都・烏丸三条にある法律事務所を運営。ニュース・法改正・裁判例などから法務トピックを取り上げていきます。