ジブリ映画「君たちはどう生きるか」 感想(1)

ジブリ映画「君たちはどう生きるか」、早速映画館に観に行った。

 

いい作品だった。

 

ネタバレなので、映画を見ていない人は、できれば観てから読んでいただきたい。

 

実は、映画館で私の隣りに座っていた20代の男性は、1時間もせず席を立って、それっきり戻ってこなかった。

 

序盤40分の日常生活の描写がよほど退屈だったのだろう。

 

映画が終わった途端、「難し~さっぱりワカランわ」「オレも」と、友達と笑い出しているグループが複数あった。

 

ジブリへの思い入れと期待の強い人ほど、評価が分かれる、という視聴後の感想があふれているが、映画館で目の当りにして、その通りなんだな、と思った。

 

私も宮崎駿監督作品は全作見ているが、さすがに思い入れがそこまではないからか、素直に楽しめた。

 

最初に言っておくと、映像レベルでは、過去のジブリ作のほうが優れているものがいっぱいあるので、映像レベルに大きな期待はしないほうがよい。

 

それ以上に評価が分かれたのは、ストーリーの良し悪しのようである。

 

たぶんまずは序盤40分ほどで、ジブリ映画の異世界の冒険を見に来たとワクワクしすぎの人は、「いつになったら異世界に入るんだ?」とガマンしているうちに集中力が切れて入っていけないということが起きるのだろう。

 

異世界に入ってからも、メタファー(隠喩)が多すぎて、しかも、多義的な解釈が可能になっていて、正直、読み取りきれない人が続出していると思われる。

 

まずは序盤40分の、戦中の日常生活の、ある意味退屈な展開と、表情の乏しいキャラクターと、棒読みスレスレの声優のトーンに、若者を中心に、ついていけない人が続出するのは当然だと思った。

 

しかし、私は、序盤は、主人公眞人の亡母、久子の、妹である夏子さんに、登場そうそう気持ちがシンクロしてしまい、「うわ、きっつー、夏子さんカワイソー、眞人ダメだよそれは、うわーお父さんデリカシー無いわ」と、心の叫びを繰り返していたので、退屈さが全く無かった(笑)。

 

この作品は、登場人物の無表情な絵、無表情な声のトーンには現れない「隠された感情・思考」に、どれだけアンテナをはれるかで、読み取れる内容がずいぶん変わってくるように思う。

 

もっと言ってみれば、中学受験入試の国語問題(小説問題)のようだった。

 

複雑な家庭事情にある子供の気持ち、親の気持ち、親子の相克といったものを、出来事や表情の描写や会話の僅かな動きから、積み上げて、察する、子供としてはおマセな視点と、バックボーンがあるかどうかが問われてくる。

 

だから、そんな小説問題のような設問が序盤の40分に次々と投げ続けられていることに気づかなければ、序盤は無意味で退屈な時間にしか見えない

 

昨今のアニメは、冒頭からスピーディーでキビキビいろんなイベントが起き、人物説明も詳細で、思ったことはセリフと表情に全部出してくれる。

 

表情にもセリフになければ、秘密か、伏線と決まっている。

 

最近はドラマも概してそういう文法に陥っていて、とにかくテンポがよくわかりやすくないと10分以内に配信を見るのをやめてしまわれる時代であり、また海外に売り出すことも難しく商業的に厳しくなるのである。

 

そういった最近のアニメやドラマの約束事になれている視聴者には、眞人や夏子の心情が説明されず伝わらないから、夏子が大叔父の塔から異世界にいざなわれてしまうのは、唐突に感じてしまう。

 

宮崎駿はこんな中学入試国語小説問題を1週間で何百万人にも見てもらえるのだから幸せな監督人生の黄昏を迎えられたと言うべきだと思った。

 

さて、夏子の登場の場面である。

 

夏子のいきなりの会話が、大きなお腹に眞人の手を引っ張って触らせて、弟妹が産まれるんだよと嬉しそうに話すことから入る。

 

夏子は、眞人にも喜んで欲しい、眞人は姉弟ができるから喜んでくれる、と思っているのである

 

いや、父と再婚する女性がいきなり妊娠していて嬉しいはずがない、というのは眞人の視点であり、観客は眞人の母久子が病院で焼死した直後の眞人に視点がフォーカスしているから、眞人の肩を持ちたいという視点になりがちである

 

私は、
「ああ、夏子は姉の久子のことがすごく好きだったんだろう」

「夏子は姉の久子とすごく仲が良かったんだろう」

「だから夏子は、姉が残した眞人のことも、赤ん坊のとき以来に会う前から、姉の分身、自分の子供も同然にいとおしいはずだ」

「久子亡き今、自分が眞人の母親となって、可愛がり、面倒をみてやろう、という、責任感と、心からの好意に満ちているんだな」

と受け取った。

 

夏子のお腹の中の子も、眞人と同母弟とまで行かなくても、普通の異母弟のような半弟よりは、遥かに血が濃く、遺伝子上も4分の3弟、と言ってよい。

 

戦前は、医療水準、栄養状態、多産、産後の肥立ちなどで、若くして亡くなる女性が非常に多かった。

 

そこで、亡妻の妹を、再婚相手に迎えることは多かった。順縁婚(ソロレート婚)という。

 

子供にとっても、赤の他人の継母が来るよりも、むしろ養育にとっても望ましいことともいえた。

 

ちなみに夫が戦死した未亡人が、夫の弟に嫁ぐことも、戦中戦後には特に多かった。そういう時代背景があるのである。

 

もっといえば、戦前は戸主制度であるから、戸主が亡くなれば前妻の長男が一家の全権を握り、前戸主の全財産を相続する。

 

後妻やその異母弟らは主な財産を相続できるわけでもないから、後妻がもし前妻の妹であれば、前妻後妻の母の実家も同じであり、前妻の長男とも濃い血族として互いに親密な家族関係を築きやすいため、後妻や後妻の子にとっても、将来仕える戸主となる、前妻の長男との血縁がより濃いのは望ましいことでもあった。

 

後妻としては、前妻の長男良好な関係を築き、しっかりと我が子として養育することが、後妻の責任としても求められていた。

 

江戸時代に人口に膾炙した和讃に「孝行和讃」というのがあり、そこでは以下のように書かれている

 

(なお、以下で、私が国会図書館アーカイブの行書体の本をテキストに起こしている)

「孝行和讃」

https://blog.lawfield.com/?p=1019

—————
もし先妻の子があらば おろそかにすな
幼な子を 後に残してゆく人の 永き別れの悲しさは
いか計(ばか)りぞと思ひやり 真と(まこと)の母になりかは(代)り 深く憐み育つ可し
—————

しかし、眞人は、そういった社会背景を理解しているわけでもなく、そもそも、父親からも教えられていないようである。

 

眞人の父親は、いかにもデリカシーのない、仕事人間の実業家、飛行機部品(風冒)製作工場の経営者である。

 

せめて、将来の戸主となる眞人には、継母となる後妻との接し方、あるべき礼節を、厳しく教えておかなければならない。

 

それが眞人の父親には全くできていないために、後述するような、夏子のショック、眞人の黒歴史を招いたのであるから、ある意味、この父親にしてこの息子ありの展開である。

 

眞人は、夏子の善良な好意を、受け入れられないで、戸惑い、口を閉ざし、表情も硬く、無愛想で不機嫌に振る舞う。

 

心配して夏子やお手伝いらが探して呼んでも、答えない。

 

自傷行為でこめかみを石で大きく傷つけ、理由も言わない。

 

夏子がつわりで寝込んでいて、会いたいと言われても、形式的な見舞いしかやらないでさっさと部屋を出て行ってしまう。

 

夏子は、眞人が見舞いに来たとき、自分が到らないから眞人が大きな怪我をした、ごめんなさいと、ベッドで寝ているのに泣きながら眞人に謝罪する。

 

それなのに眞人は何も反応せずに部屋を出て行ってしまう。

 

夏子は、立て続けのショックな出来事で傷ついて当然であり、自分が眞人に嫌われている、自分は母親として責任が果たせていない、母親失格である、これでお腹の子供が産めるのだろうかと、不安と自己嫌悪に陥って、つわりがひどくなるのも、已むを得ない。

 

なにしろ、妊婦として一人産むのも命がけの時代である。

 

まず夏子がアオサギにいざなわれ、塔の中に入って行ってしまい、眞人がその夏子を探して塔に入っていって、望みもしない危険な異世界の冒険が始まったのであるが、その事態を招いたのは、眞人の夏子に対する態度の悪さであり、いわば、夏子の善意を悪意で返した結果である。

 

眞人は、この自傷行為を自分の悪意によるものだと、のちに塔の大叔父に白状している。

 

勤労奉仕で授業もあまり受けられず丸坊主の児童達のなかに、父親は眞人を乗せて自動車(ダットサン。日産の前身)で校庭に乗り付け、眞人は勤労奉仕をしないで帰宅しようとして(顰蹙を買って当然であろう)、他の生徒らから小突かれて喧嘩になった。

 

眞人は、喧嘩のあと、自分の右こめかみを石で殴って裂傷を作り、原因を言わず、級友のいじめであると大人(父親、夏子、学校の先生たち)に思わせている。

 

おそらく、級友たちは相当に絞られただろう。

 

また、眞人は学校に登校も、勤労奉仕にも、行く必要が無くなった。

 

それを狙って悪意で自傷行為に及んだのだと、眞人は暗に白状しているのである。

 

考えてみれば眞人は、陰気で、卑怯で、嘘つきで、協調性も無く、大人の好意を悪意で返す、かわいげの無い子供である。

 

もしこんな幼少時代を過ごしたとしたら、黒歴史である。

 

アオサギのことを嘘つきとなじる眞人も、序盤40分はアオサギと嘘つきという点で同類であり、全く誉められたものでは無いのである。

 

ジブリの映画の主人公で、異世界の冒険の前に、こんな黒歴史で序盤40分を使った主人公はいないだろう。

 

だいたいジブリの映画の主人公が異世界に入るまでの時間は、冒頭からいきなりか、開始後数分程度と、概して短い。

 

長いものとしては「となりのトトロ」も序盤は長かったが、五月とメイがひたすら可愛くて爽やかに笑わせてもらっているから、「君たちはどう生きるか」の黒歴史語りと比較にならない。

 

だから、映画館で、若者を中心に、席を立って、当然だろうな、と思った次第である。

 

でも、無表情な絵とセリフから、中学入試国語問題さながら、少年と継母や実父との穏やかでない心の葛藤や、学校でのいじめ、自傷行為などの出来事における、夏子や眞人の心情を感じ取れた者からすれば、「君たちはどう生きるか」は、児童文学かつ成長物語の序盤として、セオリー通りの物語であり、Youtubeのレビューなどで序盤が無駄である・意味が無いとよく言われていることに対しては、何が低評価なのかわからない、という感覚を持つことになる。

 

まあ、とはいえ、こんな黒歴史語り40分で序盤を使うアニメを、このご時世に作って見てもらえるのは、やはり宮崎駿だからである。

 

ちなみに、「君たちはどう生きるか」という吉野源三郎の著書が映画のストーリーに関与するのは1点だけである。

 

亡母の久子が昭和12年に(舞台は昭和19年だから7年前)本の裏表紙に「眞人へ」と書いて残したのを、眞人が見つけて、読んで涙を流し、自分の黒歴史を反省・改心し、心を入れ替えて、夏子を探して塔に入っていく、という流れにおいて、眞人の黒歴史が転換するきっかけとして使われている。

 

といったところで、感想(1)はここまでとして、異世界の冒険の話は、感想(2)以降で書いていくことにする。

 

黒歴史の40分だけ解説を読んだら、抹香臭くて、もう映画を見る気が起きなくなる人が続出するかもしれない。

 

でも、眞人と夏子、さらに他の人物にとっても異世界の冒険を意味を理解するには、序盤40分がけっこう重要になってくる。

 

それで長々と序盤の感想、解説を述べた次第である。

(2)に続く。

西村幸三

lawfield.com

京都・烏丸三条にある法律事務所を運営。ニュース・法改正・裁判例などから法務トピックを取り上げていきます。