ジブリ映画「君たちはどう生きるか」 感想(1)
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から続く。
ジブリ映画「君たちはどう生きるか」の序盤40分の日常生活の部分の感想を、(1)で書いたが、ようやく異世界の冒険のパートについて語ることにする。
ストーリーを追うのではなく、テーマ別にコメントしていく形をとることにする。
ネタバレになるので、できれば映画を見てから読んでいただきたい。
アオサギは嘘つきか、友達か
眞人はアオサギのことを嘘つきだと言っている。これは序盤で、母が塔の中で生きているから会いに来いと言うからである。
ヒミは、=神隠しにあった少女時代の久子、つまり眞人の母の久子であったのだから、実はアオサギは何も嘘はついていない。
つまり、アオサギが嘘つきだという眞人の言っていることが、言い掛りだったのである。
嘘つきなのは、序盤の黒歴史時代の眞人のほうである(笑)。
ただアオサギは説明不足だから、眞人にすぐに理解できなかったということなのである。
アオサギは更に塔に入ってすぐのホールで久子のダミーを作りかかっていたから、それで余計に眞人から騙しているように怒りを買うが、これも、ヒミを久子だと言っても別の意味で嘘つきよばわりされるわけだから、まずは手っ取り早く久子の生前の姿を眞人に見せてやる、ということなのだろうと思われる。
最初にまず夏子が塔に入っていったのは、アオサギにいざなわれてのことだったと思われる。
夏子が妊娠しているお腹の子が大叔父にとっての後継者候補になりうるから、大叔父の命令で誘い込まれたのかもしれない。
アオサギは、夏子に何と言って塔の中に誘い込んだのだろうか。
おそらく、「久子に会える」と言ったものだと思われる。
そうすると、ここでもアオサギは嘘をついていない。
夏子は久子のことが大好きで、妊娠の不安と、眞人に関する不安で、心から久子に会いたい、今の状態から逃げたい、と思ったに違いない。
アオサギは、序盤40分の日常生活では、眞人に突っ込んでいって木刀を咥えて折った場面があり、眞人を攻撃しているようにも見える。
しかし、実は、木刀で挑発したり、弓矢で攻撃しているのは眞人であり、アオサギは、眞人に挑発されたのでそれならと木刀をくわえてへし折ったに過ぎない。
少なくとも眞人を傷つけたりしていない。
眞人にも(観客にも)攻撃をしかけたように誤解されても、アオサギは言い訳もしない。
アオサギにとって、眞人は後継者候補として大叔父の次の主人になる可能性もある人物、つまり若旦那である。
アオサギは眞人を「若旦那」とも呼んでいる。
眞人が失神してインコに捕まって食べられそうになった時も、命懸けで忍び込んで救出している。
一方で、アオサギは、異世界での旅の途中、眞人に、一度は、自分はお前の友達ではない、とも言い放っている。
若旦那であっても友達では無い、という立ち位置である。
しかし、異世界が崩壊して脱出したあと、眞人に、「あばよ、友達」と言って去って行く。
このツンデレ感が、アオサギのキャラクターの魅力を際立たせている。
アオサギの特長を言えば、
・序盤の陰気で悪意ある眞人に、寄り添う気はさらさら無い
・憎まれ口を叩くが、悪意からではない
・眞人が攻撃してきても、いなすだけで、強く反撃するわけでは無い
・眞人にわかりにくいことが起きても、いちいち懇切親切に丁寧に説明してやることもないが、嘘をついたり陥れる事は無い
・眞人の夏子救出の旅の目的を達成するために行動をともにし、眞人の危機も命懸けで救う。
・ファンタジーの異世界と日常世界を自在に行き来して各世界や住民のことを理解している。ファンタジーの世界に閉じこもる大叔父のためにも、日常世界で陰気に過ごしている眞人のためにも、有用な陰働きができる。
といったものである。この距離感が、友達として、見る者にもとても心地良いと思う。
眞人が塔に入る理由
眞人は塔に入ることを拒んでいたが、夏子を助けるという目的ができたので、塔の中に入ることにした。
合わせて、母の久子が塔の中にいるのか確かめる、とキリコに宣言している。
キリコは、お手伝いのうち、背筋が一番シャンとしているし、自律心を持ち、賢そうである。そのキリコが、一緒に塔に入っていく。
キリコは、塔の前で眞人が中に入るのを制止するのに、「夏子お嬢さんがいなくなればいいと思っているくせに」というが眞人は無視する。
キリコは眞人が夏子に悪意を持って接していることに気付いていた。
しかし、眞人はそのとき、7年前に母から裏表紙に「眞人へ」と書かれた吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」を読んでいて、眞人は、夏子への悪意ある行動を後悔・改心していた。
だから、眞人は、夏子を探し出して、自分が夏子に悪意で接した埋め合わせをするという決意を持っている。
「君たちはどう生きるか」の本によって、眞人は、キリコが考えている「夏子を嫌う眞人」ではなくなっていたのである。
眞人が入ろうとする、その塔の入口の頭上に、フランス語らしき文章が書かれているが、読めなかった。なんらかのメタファーなのであろう。
墓域と産屋
眞人は、塔の奧のホールの床に吸い込まれて、まず、海の海岸に降り立つ。
そこは、イングランド郊外に広がる丘陵の牧草地の境界となっている石積みのような墓域の境界と、墓域の門があり、「我を学ぶ者は死す」と書かれている。
このメタファーも、意味は分からない。
墓域には、奈良の石組みの古墳(例えば石舞台古墳)のような墓石が積み上げられて墓室となっている。
ストーンヘンジとすこし似ているように見えなくもないが、おそらくは、奈良の石組みの古墳がモチーフになっている、墓である。
墓の石積みの中の奧のほうに、白い多数の細かいもやもやしたものが動いている。
これは、後に出てくる「わらわら」(異世界の天に昇っていって現世の人間に生まれ変わる霊)の、いまだ発達前のものと思われる。
ちなみに、夏子が籠もっていた産屋(うぶや)は、白い護符(紙垂。護符であり、兼、赤ん坊をあやすベッドメリーのようなもの)が剥がれたあとの全景で、異世界で最初に登場した石組みの墓室そっくりであることがわかる。
つまり、この異世界では、人間の子供の魂の未発達の霊がうごめく場所が墓室であり、それは、産屋でもある、ということである。
別の世界で死んだ生き物(人に限らないのだろうがそれはこの映画のテーマでは無い)が、まず異世界の墓域の墓室の中でわらわらとなって出現する。
そして、キリコなどに魚の臓物などの切り身を与えられ、一定の成長をしたあと、いまだひよわい幼生の状態で、異世界を空の上に登っていき、人間世界に生まれ変わる、という仕組みであり、輪廻転生の姿をあらわしている。
墓という空間が、人が死ぬところであり、生まれ変わって転生するところでもある、という設定である。
ペリカンは、眞人に群がって墓域の門扉を打ち破り、さらに墓室に近づこうとする。
これに対し、キリコがペリカンを、火の出る杖で追い払う。
「ペリカンは人間を食べる」と、キリコは言う。
眞人も襲われ、食べられそうになったが、食べられなかったのだと。
食べられなかった理由は、アオサギの羽根を持っていたからだと笑う。
日常世界と、異世界では、人間と鳥の、ヒエラルヒー、食物連鎖の順位が入れ替わっているのである。
アオサギは、日常世界と異世界を自在に行き来して、どちらでも食物連鎖の上位で生き抜く能力を持っている(日常世界の池でも大きな魚を捕食する)。
だから、ペリカンがアオサギの羽根を避ける。つまりアオサギは、眞人が異世界で頓死しないため、食べられないための護符、魔除けになっているのである。
ペリカンは、そのあとで、わらわらが魚の臓物といった餌を食べて発達して天上に昇っていこうとするときにわらわを食べようと襲いかかってくる。
このわらわらも、キリコとヒミが守ろうとする。
こうしてみると、キリコが守ろうとした墓域、墓石は、やはり、未発達のわらわらの揺りかごと思われる。
異世界の食物連鎖構造と侵略的外来種
後に登場するインコも、人間を食べる。
鍛冶屋の人間は食われたようであり、眞人も食べられかかった。
ペリカンとインコは、大叔父が、現世から、この異世界に持ち込んだものであるという。
インコは、異世界では繁殖して激増しており、まるで人間のように直立して手を器用に使う。
知能が発達して社会や先頭集団を形成し、異世界の造物主ともいえる大叔父と駆け引きに及んで、ついには造物主のあとの異世界の支配者になろうとしている。
インコの数の激増振りや、横暴な幅の利かせ振りは、侵略的外来種のメタファー、さらには神の後継者として世界を支配しようとするホモ・サピエンスのメタファーと思われる。
異世界の崩壊は、侵略的外来種=インコ(≒人間のメタファー)が傲慢にふるまい、やがて世界そのものを崩壊させるというメタファーになっている。
ホモ・サピエンスが地球中に拡がって侵略的外来種として地球環境を崩壊させていることのメタファーにもなっている。
ペリカンは、同じように外来種であるが、喋ることはできるがさほど知能も発達せず、異世界で次の世代は次第に飛べなくなって退化しつつあり、食物連鎖の上位に君臨してもいない。
さしずめ、ホモ・サピエンスの弱い部族や民族、社会的弱者、環境や社会に適応できない人や生物種といったところであろうか。
ペリカンの餌となる魚も海には少なく、やむなく人間やわらわらを餌にして、キリコやヒミに焼かれており、現世と立ち位置があまり変わらない、立ち位置が強者と弱者のヒエラルヒーの中間に属する存在である。
ヒミがペリカンを炎で追い払う際、わらわらも巻添えで焼かれて落ちてしまい、眞人はやめろと叫ぶ。しかしキリコは、それで当分ペリカンは来ないと満足げに言う。つまり、それではるかに多いわらわらが救われるということなのである。
ヒミもキリコも、ある程度のわらわら(人間の生まれる前の姿)の犠牲を、食物連鎖の中での犠牲の一環として、受け入れているのである。
ヒミもキリコも、そう言いながらも、わらわらを護り育てているわけで、食物連鎖の自然の摂理と、人為による制御の並立を、あたりまえのこととして受け入れているのである。
現世から外来種として侵入してきた生き物、つまり、人間、ペリカン、インコは、喋ったり自発的な行動を取れるだけの知能を発揮できる。
それ以外の、異世界で誕生した、船の漕ぎ手、キリコの船の到着を待って魚の切り身を買いに来ている霊やわらわらは、いわば、霊・魂のようなものであり、自発的な行動をとる能力は無く、キリコが「あいつらは殺生ができないから」と言うように、キリコといった知能を持つ外来種の漁労=殺生によって養われる立場である。
わらわらがいずれ人間に生まれ変わる魂だとすれば、それ以外の船の漕ぎ手や魚の切り身を洗面器を持って買いに来ている霊などは、さしずめ、人間以外の霊で、いずれ現世に生まれ変わる者であろうか。
こうやってみると、この異世界は、六道輪廻の「畜生道」に近いようにも思われる。
ペリカンは「『地獄』に連れてこられた」というが、六道輪廻の世の中では、畜生道にふさわしいように思われる。
そこでは、人間に生まれ変わろうとするはずの者もペリカンに食われてしまい、インコが食物連鎖の上位に君臨して人間をも喰らう世界である。
六道輪廻の考え方は、強者・人間が、世界、生物界の最上位に常にいるわけではない、という、人間中心主義・人間絶対主義の固定観念を覆すものである。
眞人は、漁労によってわらわらを養うキリコの姿に触れ、他人に貢献することが喜びとなって自分の存在意義を見いだせることを学ぶ。
ペリカンの断末魔の語りを聞き、世の中の強者と弱者の相対化、そして自分と他人の相対化ができるようになる。
夏子を探す旅
眞人は夏子を助け出すために、キリコに促され、アオサギとともに塔に向かう。
キリコからは、現世のキリコが人形化した方のキリコの人形をお守りとして持たされる。
漁労をしているキリコは、ヒミの幼少時代のキリコであり、2人のキリコが同時に存在できないために、眞人の時代のキリコは人形に姿を変えるのである。
この頃になると、現世と異世界とで、生き物が違った姿になることは、何の違和感も持たなくなる。
ちなみに、その旅の途中で、眞人は、ヒミから石には悪意があるからさわるなといわれるが、石を拾ってポケットに入れている。
つまり、眞人のポケットには、現世のキリコの人形と、異世界の石が入っている。
それが、ラストで現世に戻ってきたときのイベントに、意味を持つことになる。
眞人は、歩きはじめるが、そこでは、「風の谷のナウシカ」の腐海に住むトンボなどの昆虫が飛び回っている場面がある。
どうやら、この世界は、宮崎駿の過去の作品のオマージュに溢れているようである。
鍛冶屋の建物はインコに占領されている。どうやらインコは人間の鍛冶屋を食ってしまって鍛冶屋の建物を占拠してしまったようである。
インコが眞人を丁重に建物の奥に案内し、後ろ手に包丁を持っている様子は、宮沢賢治作「注文の多い料理店」の猫を思わせ、滑稽なメタファーと思われる。
眞人をインコたちが襲い、ヒミが登場し、追い払う。ヒミは火に包まれて眞人を連れてワープトンネルを異動し、ヒミの家にたどりつく。ヒミの家の暖炉から飛び出す。ヒミの家の暖炉がワープのポートになっている。まるで「ハウルの動く城」のカルシファーの暖炉のようである。
なお、眞人は最後に大叔父に会いに行く際に塔の外壁に出てよじ登っていくが、そこの場面は「千と千尋の神隠し」を思い出す。
上記の、「風の谷のナウシカ」「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」はなんとなく過去作のオマージュだろうと分かるが、その他の宮崎駿の10作品のオマージュがどこにあるのかは、初見ではわからなかった
ヒミは、この塔はいろんな世界に跨がって建っているから現世の塔の形そのものであるという。また、後に塔の中を歩いている際に、多くの扉のある回廊に来たとき、各扉はいろんな時代に通じている、とも言っている。
ヒミは、産屋に、眞人を案内する。その途中に、各時代に繋がる多くの扉の回廊を通り、両側からインコに追い詰められて、現実世界の扉の外側ノブにぶら下がる。勢い余って現実世界に飛び出したインコはただのインコに変身する。
ヒミが眞人を産屋に案内する。ヒミは自分は立ち入らないといい、眞人だけが入る。
(3)に続く