日新公いろは歌 島津忠良を紹介する。
「日新公いろは歌」は、日新斉・島津 忠良(ただよし)作とされる。
島津忠良は、島津家中興の祖で、16世紀前半の島津家の内紛を収束させ、息子の貴久、孫の島津義久・義弘・家久兄弟へと賢君・名君が続く、島津家発展の基礎を作った、名君であるとされる。
儒・神・仏をよく学び、「日学」という一流を建てたと言われている。
「日新公いろは歌」は、手習いの子供にも儒神仏や武士のならいが吸収できるように作られたもので、薩摩藩の「郷中(ごちゅう)教育」でも使われてきた道歌である。
現在でも、鹿児島に行くと、「いろはかるた」として普通に販売されているものである。
い いにしへの道を聞きても唱えても 我が行ひにせずばかひなし
ろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき
は はかなくもあすの命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせで
に 似たるこそ友としよけれ交らば われにます人おとなしき人
ほ ほとけ神(かみ)他にましまさず人よりも 心に恥じよ天地よく知る
へ 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも山とことのは
と 科(とが)ありて人をきるとも軽くすな いかす刀もただ一つなり
ち 智恵能は身に付(つき)ぬれど荷にならず 人はおもんじはづるものなり
り 理も法もたたぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の行くにまかすな
ぬ ぬす人はよそより入(い)ると思うかや 耳目(みみめ)の門に戸ざしよくせよ
る 流通(るづう)すと貴人や君が物語り はじめて聞ける顔もちぞよき
を 小車(おぐるま)のわが悪業(あくごう)にひかれてや つとむる道をうしと見るらむ
わ 私を捨てて君にし向かはねば うらみも起こり述懐もあり
か 学文(がくもん)はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそなほしずかなれ
よ 善きあしき人の上にて身をみがけ 友はかがみとなるものぞかし
た 種となる心の水にまかせずば 道より外に名も流れまじ
れ 礼するは人にするかは人をまた さぐるは人をさぐるものかは
そ そしるにも二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ
つ つらしとて恨みかへすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
ね ねがわずば隔てもあらじいつわりの 世にまことある伊勢の神垣
な 名を今にのこしおきける人も人 心も心何かおとらん
ら 楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名をただおもうべし
む 昔より道ならずしておごる身の 天のせめにしあはざるはなし
う 憂かりける今の身こそはさきの世の おもへばいまぞ後の世ならむ
ゐ 亥に臥(ふ)して寅には起くとゆふ露の 身をいたづらにあらせじがため
の のがるまじ所をかねて思ひきれ 時にいたりて涼しかるべし
お 思ほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて義をまもれひと
く 苦しくとすぐ道をいけ九曲折(つづらおり)の 末は鞍馬のさかさまの世ぞ
や やわらぐと怒るをいはば弓と筆 鳥と二つのつばさとを知れ
ま 万能も一心とあり事ふるに 身ばしたのむな思案堪忍
け 賢不肖用い捨つるという人も 必ずならば殊勝なるべし
ふ 無勢とて敵をあなどることなかれ 多勢を見ても恐れずべからず
こ 心こそ軍する身の命なれ そろゆれば生きそろわねば死ぬ
え 回向には我と人とをへだつなよ 看経(かんきん)はよししてもせずとも
て 敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかえして身をもたしなめ
あ あきらけき目も呉竹のこの世より 迷わばいかに後のやみぢは
さ 酒も水ながれも酒となるぞかし ただなさけあれ君がことの葉
き 聞くことも又見ることも心がら 皆まよいなりみな悟りなり
ゆ 弓を得て失ふことも大将の 心一つの手をばはなれず
め めぐりては我身にこそは事(つか)えけれ 先祖のまつり忠孝の道
み 道にただ身をば捨てむと思いとれ かならず天のたすけあるべし
し 舌だにも歯のこはき(強き=堅き)をば知るものを 人はこころのなからましやは
ゑ 酔へる世をさましもやらでさかづきに 無明(むみょう)の酒をかさぬるは憂し
ひ ひとり身をあはれと思え物毎に 民にはゆるすこころあるべし
も もろもろの国や所の政道は 人にまづよく教へならわせ
せ 善に移り過(あやま)れるをば改めよ 義不義は生まれつかぬものなり
す 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなき十六夜の空