羽生善治の凋落から復活と将棋会館建替問題の今は昔(1)

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昔話から始まる。

 

羽生善治が1995年に七冠(当時は叡王位タイトル戦はなかった。今はタイトル戦は8つ)を達成したときの大ニュースは、当時の将棋愛好家には忘れられない興奮であった。

 

ちなみに私は大山康晴十五世名人の次に好きになった棋士が羽生善治だった。

 

私が小学生のころのヒーローが大山康晴であった。

 

大山康晴十五世名人というのはまさしく怪物で、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。

 

いずれも1位は羽生善治だが、99期、45回、1521勝と、思ったほど差がない。

 

大山康晴は永世位としては、永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を持った。

 

要は、大山康晴は、現役時代にあったタイトルほぼ全てで永世名人になった。

 

羽生善治は、永世七冠称号を保持し、通算タイトル獲得数は99期であるが、大山康晴の全盛期のタイトル戦は3種類から最大6種類であった。

 

将棋のタイトル戦結果一覧 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E6%A3%8B%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB%E6%88%A6%E7%B5%90%E6%9E%9C%E4%B8%80%E8%A6%A7

 

プロデビューした時点でタイトル戦が7つ揃っていた羽生善治は、大山康晴よりかなり恵まれた条件でタイトル獲得数99期を達成しているとも言える。

 

大山康晴のすごいところは、1973年(昭和48年)に一度無冠に転落しながら(中原誠時代の到来による)、その後に棋聖に復活して7期務め、さらに王将を3期務めと、58歳となる1981年(昭和56年)までタイトルを保持し続けたことであり、まさしく鉄人、超人であった。

 

そして、その間の1974年(昭和49年)将棋会館建替委員会の委員長に就任して、東京千駄ケ谷の現将棋会館の建設に尽力した。

 

1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務め、さらには、将棋連盟会長時代の1977年(昭和52年)には関西将棋会館の建設にも取りかかり、関西将棋会館建設副委員長として関西将棋会館を建設した。

 

各界からの多額の寄付などに、大山康晴は、まさしく東奔西走を繰り返して、それは今でも語り継がれている。

 

1992年6月25日が大山の最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。

 

それから1ヶ月後の1992年7月26日、大山は名人順位戦でA級在籍のまま、69歳で死去した。

 

大山康晴が50歳代に入って獲得したタイトルは、十段(今の竜王位)1期・棋聖7期・王将3期の計11期である。

 

まさしく怪物である。

 

小学生のころの私は、大山康晴の美濃囲いの棋譜を並べるのが大好きだった。

 

それ以上に、大山康晴が将棋盤以外でもどんなにエラい人かというのは、少年時代を通じて、新聞記事などで読む機会が多くて、本当に尊敬の念を持ち続けていた。

 

しかし、世間一般には、相撲で言えば大鵬や北の湖の役回りが大山康晴であり、双葉山や輪島の役回りは、棋士においては、升田幸三や中原誠が、その役回りだった。

 

要は、大山は、常に、倒されるべき巨人の役回りだった。

 

また、大山康晴の態度は、結構、他の棋士に対して傲然としたところもあったように、新聞などで報道されていたように記憶している。

 

それにしては将棋連盟会長を長くやっているのだから、人望があったのか無かったのか、一体全体、不思議なことである。

 

要は、当時の新聞各紙にとっては、将棋界のニュースというのは芸能界同然で、大山康晴がダークヒーローの役回りでいかに倒されるかが、格好のネタだったのだろうと思われる。

 

今も昔も、新聞は、将棋界のタイトル戦の大スポンサーであり続けている。

 

そもそも大新聞各紙が次々と高額賞金タイトル戦を創設したのも、まさしく、大山康晴黄金時代から晩年にかけてのことである。

 

さて、話は変わる。ここからが羽生善治に関する本題である。

 

2019年、大山康晴が尽力して建設された、千駄ケ谷の現将棋会館が、そして2021年には大阪市福島区の関西将棋会館が、それぞれ、建て替えられることが、決まった。

 

将棋会館の竣工と移転は連盟設立100周年の2024年を予定、関西将棋会館の竣工と移転は2023年が予定されている。

 

この将棋会館・関西将棋会館の建て替えに、羽生善治が、非常に深く関わっていることをご存知だろうか。

 

2018年6月8日に開かれた将棋連盟の棋士総会にて、「会館建設準備委員会」を設置することを決議した。

 

委員長には当時竜王の羽生善治が就任したほか、森内俊之・中村太地・久保利明らが委員に選ばれた。

 

当時そして今も、将棋連盟会長は、羽生世代の佐藤康光(53歳の現在も名人戦順位戦A級在籍。羽生善治もA級を陥落した今、現A級棋士の中で最年長)である。

 

ここまでは、藤井聡太のデビュー以来のフィーバーを見て来たファンには周知の事実だろう。

 

しかし、羽生善治は、実は、ずっと以前に、将棋会館の建て替えを将棋連盟内でうったえて、支持を得られず棋士総会で敗れ去ったことがある。

 

その1997年のときの経緯は、報道でもあまりクローズアップされることなく、もはや、忘れ去られているように思う。

 

 

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4839943893/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o01_s00?ie=UTF8&psc=1
「盤上の人生 盤外の勝負」
河口俊彦(元将棋棋士。2012年現役引退)

において、赤裸裸に当時の会館建設問題の経緯が記されている。

 


ちょうどこの頃、羽生の今後に大きな影響を与えたであろうと思われる出来事が起った。
東京将棋会館が建ってから20年以上が経ち、あちこちが傷み出した。そこで、大がかりな修理をするか、いっそ建て直すか、という話が出た。
大問題であるから、例によって審議委員会が作られた。
中原誠が委員長で、羽生など上位棋士が委員として加わった。
このとき羽生は、将棋界の実質的な代表者になったのだから、運営面にも関わらねばならぬ、との使命感を強く持った。
そして、この問題を真剣に考えたらしい。
建築について勉強し、一級建築士や会計士などにも助言を求めたと聞く。
そして、建て直すべきとの結論を得て、試案をまとめた。それをみた先崎学によると、考えられぬほど完璧なものだったという。
委員会も羽生案を答申しようという空気だった。
自信を得た羽生は、東京だけでなく関西でも、若手棋士たちとの集会を開き、試案を説明し、賛成を得た。
そうして、棋士総会で羽生案が採決されることになった。
念を入れて、総会当日の午前中に、鳩森神社で羽生案支持の若手棋士たちを集めて、意見を確認した。
午後から棋士総会が開かれ、いよいよ「将棋会館建設」についての採決がはじまった。
理事会が示したのは、
(1)新将棋会館を建てる。
(2)五年様子をみる。
(3)十年様子をみる。の三つからどれかを選ぶ、という投票方法だった。
建て直すか、やめるか、白か黒かと言わないで、三者択一にしたあたりが将棋指しらしいやり方である。投票結果は大差で、(3)十年様子をみる、だった。
その結果は仕方ないとして、驚いたのは、羽生案に対する支持が予想をはるかに下回ったことで、感じとしては、支持すると確約した棋士の半数が裏切っていた。
私は肚が立った。今の将棋界の若者はどうしようもない、と思った。表では羽生にへつらいながら、陰で裏切るなんて、いかにも陰湿ではないか。結果が出たときの羽生の顔を見ることができなかった。
羽生には大ショックだったろう。
これ以後、運営面に関わろうとはせず、若手棋士たちとも付き合わなくなった。棋士総会には顔を出すが、それも中途に来て、すぐ帰ってしまったこともあった。
ともあれ、将棋界はあのとき、いちばん大切な人のやる気をなくさせることをしてしまったのである。それがどれほどの損失か、反対票を投じた若手棋士たちはわかっていない。私の若手の将棋を見る目は、このときから変わった。

 

 


 

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西村幸三

lawfield.com

京都・烏丸三条にある法律事務所を運営。ニュース・法改正・裁判例などから法務トピックを取り上げていきます。