「荀子」という書がある。「孟子」と対比して語られることが多いが、「孟子の性善説に比較して性悪説を採る」、とひとくくりに片付けられ、性悪説ばかりが強調されがちな書である。
全体を通読され、語られる機会が、なぜか非常に少ない本である。
荀子は、虚心坦懐に丁寧に通読すると、誠に素晴らしい自己啓発と倫理の書である。
文章は対句調で格調高く、簡にして要を得た倫理の概念と、透徹した論理で、原因と結果の法則が展開されていく。
後半には、相歌(第二十五)、賦(第二十六)など、美しい韻文も読まれている。
一節一節が味わい深く、説得的である。
難解とも言われるが、丁寧に読んでいけば、文義は実に明快で、現代に通用する。
しかし読み進めていくと、後半3分の2ほどのところで、孟子を名指しして、性善説を批判する。
(別に孟子だけを批判したわけではなく、子游派・子夏派・子張派・墨子・名家その他の諸家を適宜批判しているのであるが)。
後代の評価を落としたおそらく唯一にして最大の疵が、孟子への批判箇所であった。
「孔・孟」と称され、宋代にいたっては朱熹が出て「孟子」を絶賛し、孔子の正統の後継者として高く評価されてきた。
孟子が孔子よりやや上くらいの扱いを受けるようになったとも言える。
孟子を正面から批判した荀子の書は異端扱いとなり、まともな注釈書も出ないまま、ついには中国本土では散逸した。
日本の鎌倉時代に創設された金沢文庫に天下唯一の古本が残り、清代になってようやく中国に逆輸入され再認識されたというほどに、顧みられなかった書であった。
なによりも、儒学研究の盛んだった漢代から宋代に顧みられなかったのは致命的だった。
今では、普通に、新釈漢文大系で、全文が読める。
では、どんな内容か。
一言で言えば、現代的である。
理性的。
原因と結果の法則を示し、よい結果には良い原因があり、悪い結果には悪い原因があるとする。
天変地異もただの自然現象に過ぎないと言い切る、現代的な科学性。
甘さがない。
冷徹。
厳しい自己規律。
常に善悪の両面を対比し、いかに善に向かうか、一生気を緩めず精進せよ、学びの道は死して後已む、と繰り返す。
こういった論述は、その殆どすべてが、現代の職業人の倫理として十分通用する。
ところで、なぜ、荀子は、孟子を批判したのか。
実は私も同じような思いを「孟子」に感じたものだから、荀子の孟子批判は、至極まっとうな範囲に留まっていると感じる口である。
私が初めて「孟子」を通読したとき(たぶん中学生の時だったろう)の印象は、残念ながら「机上の空論、理想論、エキセントリック、攻撃的、世間知らず、狂信的、思い込みが激しい」というものだった。
一読して「何これ?」と思い、しばらく手に取らなかったくらいである。
孟子には、「論語」における孔子のような達観が見られず、「なぜこれが孔子の後継者???」という印象だった。
年齢を重ねて、「孟子」に多分に淵源を持つ、朱子学の熱烈な名分論や陽明学の熱狂的な行動主義思想、さらに、例えば、浅見絅斎 「靖献遺言」、吉田松陰の「講孟箚記」といった書に触れた。
「孟子」に発するこれらの思想に共鳴して幕末の志士たちが倒幕を果たしたことを得心するに至った。
そこではじめて、人が心を奮い立たせ強烈な爆発的行動を生む原動力は、より「孟子」に存在し、理性的な「荀子」はその点譲らざるをえないのだな、と理解した。
私は、荀子の語りにも非常に熱い堅固なものを感じるのだが、理性的、抑制的で、その熱は原文まで当たらないとなかなか伝わりにくい。
荀子は、あまりに現代的過ぎた、生まれた時代を間違った、ともいえる。
一方で、現代の一般社会で堅実な成功をおさめたい者にとっては、荀子の説く理に従って自己規律をおこなうほうが、孟子の狂気に従うよりは、およその場面では賢明だと思われる。
幕末でも、倒幕を達成した大久保利通、岩倉具視などは、激しさと強さ・謹厳さの質が、孟子ではなく荀子に近い。西郷隆盛はやや孟子寄りだろうが荀子の面も見える。吉田松陰、久坂玄瑞は孟子寄り。高杉晋作、木戸孝允も兼備型だが荀子寄りだろう。
勇気を奮い起こす必要のある場面では、孟子を心に携えることが効果的だが、一歩間違えれば、幕末でも、現代ではまして、迫害・疎外の憂き目に遭うだろう。
(2)以降では、印象に残る箇所を抄訳したい。
荀子について(1)
https://blog.lawfield.com/?p=677
荀子について(2)
https://blog.lawfield.com/?p=687
荀子について(3)
https://blog.lawfield.com/?p=694
荀子について(4)
https://blog.lawfield.com/?p=699